2015年2月7日土曜日

マスターの恋ばな③ -衝撃の夜編ー



僕の若き日の恋ばな第3弾です。

バレンタインシーズンに向けて

興味のある方は、読んでみてください。








「今日からこちらでお世話になることになりました、相沢です。分からないことも多々あるとは思いますが、皆さんよろしくお願いします」

挨拶するその姿を、僕は食い入るように見つめていた。

スマートな出で立ち。

長くて、綺麗な黒髪。

可愛い声。

そして、はにかんだ笑顔。

僕には、すべてが眩しく見えた。

何か独特のオーラを放っているようにさえ、僕には感じられた。

課内も、彼女が来ただけで見違えるように華やかになった。

そんな彼女の周りには、いつしか常に沢山の人だかりが出来た。

彼女は当たり前のようにその輪の中心にいて、これ以上ないといった笑顔を皆に振りまいていた。

そういう僕も、先輩たちに倣って、彼女を「優美ちゃん」と呼ぶようになった。

気付けばそんな僕の視線の先には、必ずと言っていいほど彼女がいた。


先輩たちの中には、既に彼女と随分と親しげな人もいた。

仲良さげに話すその姿を、羨ましくも、僕はいつも静かに見守っていた。

ところが・・・。

「ねぇ、これどうしたらいい?」

何故か分からないが、暫くすると、彼女は事ある毎に僕を頼ってきた。

それは僕にとって、まさに奇跡のような出来事で、この時の僕の舞い上がりようといったら。

ようやく慣れてきたところで、何故なのかやっぱり気になったので、思い切ってその理由を彼女に訊いてみた。

すると、彼女は、眩いばかりの笑顔でこう答えてくれた。

「困ったことがあったら、アイツ使っとけばいいからねって、佐藤さんに言われてたの」

ここで言う「アイツ」とは、勿論僕のこと。

そう、前庶務の佐藤さんは、素晴らしい置き土産を僕に残してくれていたのだ。

そんな訳で、年齢も一番近かった僕らは、気付けば課内で一番話をする仲になっていた。

「ちょっと来て」

給湯室で洗い物を手伝わされることもあった。

「仕事中やで」

そう言ってる僕の顔が、嫌がってる筈もないのだった。


二人でいるときは、常に笑いが絶えなかった。

とにかく、楽しかった。

上司や先輩の目は多少気になったが、僕はわざと気付かない振りをしていた。

そして、この時、僕は彼女の何か特別な存在になったような気でいた。


ただ、僕にとって、彼女はあくまで「庶務の可愛い優美ちゃん」でしかなかった。

勿論、結婚を目前に控えていた訳だし、彼女に対する恋愛感情なんてある筈もなかった。

それは、手を伸ばしても決して手の届くことのない、遠い雲の上の存在のような。

多少我儘なところもあったけど、それさえも僕には可愛く見えた。

特に僕は、彼女の京都弁が少し入ったような可愛い喋り方が好きだった。

「この甘えた口調で、何人もの男が騙されてきたんだ」

そう冷静に判断する自分も、またどっぷりと彼女に嵌っていた。

そんな彼女は、会社の同僚とバンド活動も行っていて、会社のイベントの際には、ヴォーカルとしてセクシーな衣装でステージに立ち、会場中にその圧倒的な存在感を見せつけていた。

その姿は、光り輝く、まさにアイドルそのもので、テレビの中から飛び出して来たのではと、勘違いさせるほどだった。

さらにその歌声も普段とはまるで別人の如く透き通り、会場全体をあっという間に虜にしていった。

僕の周りの何人もの輩が、瞬く間に彼女に夢中になっていくのが分かった。

そして、言わずと知れたこの僕も、当然その中の1人だった。




季節は巡り、うっとおしい梅雨に入った6月中旬、遂に相沢優美が結婚する日がやって来た。

式の前々日、彼女は慌ただしく仕事をこなしていた。

明日から会社を二週間近く休むとあってか、その引継ぎ作業は想像以上に大変そうだった。

「疲れたよぉ・・・」

ようやく一段落ついたのか、いつものように僕に話しかけてきた。

「大変そうやね。なんか手伝うことあったら、言ってや」

「ありがとう。でも、大丈夫」

「そっか、なら休憩がてら、結婚祝いにジュースでも奢ったろか?」

「ホンマに! やったぁー」

途端に、彼女は笑顔になった。

僕らは、その足ですぐさま休憩所に向かった。



「じゃあ、おめでとうということで・・・」

「ありがとう」

ジュースで、僕らは小さく乾杯をした。

「ついに明後日やね。どんな感じ?」

「うん、順調だよ。でも当日になったら、やっぱ緊張するんかな」

普段となんら変わらない会話だった。

そしてそんな中、僕は当然といった顔をして、彼女にこう言うのだった。

「じゃあさ、俺の為だけに、なんかお土産買ってきてよ」

新婚旅行は、ハワイに行くという話だった。

そして、僕が待っていた答えは、

言うまでもなく、彼女の笑顔の「うん」だった。

ところが、

彼女は表情一つ変えず、そしてそれまでとは打って変わった冷たい口調で

「覚えてたらね」

そう言うと、

「そろそろ行こっか」

そう言ってジュースを一気に飲み干すと、そそくさと職場に向かって歩き出していった。

だが、僕は、その場に立ち尽くして暫く動くことが出来ないでいた。

彼女が何気なく言い放ったその一言に、なにか言いようのないショックを受けているのだった。

そして、遠ざかる彼女の後ろ姿を見ながら、気付いた。

気付いてしまった。

そう、僕は彼女にとって、少しも特別な存在でなかったことに。

彼女の周りにいる、ただの輩たちと同じだったことに。

僕の心の中に、突然ポッカリと大きな穴が開いた気がした。

そしてその穴の存在に気付いた時、僕の中で何かが動き出した。



翌々日の6月15日、相沢優美は結婚した。

その日の空は、梅雨の合間を縫うかのように見事に晴れ上がり、それはあたかもか彼女を祝福しているかのようですらあった。

知り合って二ヶ月半の僕は、当然式に呼ばれるでもなく、いつもと変わらぬ休日を過ごしていた。

布団に包まった僕は、気付けば彼女のウェディングドレス姿を想像していた。

華やかな純白のドレスを身に纏った彼女は、言うまでもなく綺麗だった。

そして彼女は皆に祝福され、幸せそうに笑っていた。

でも、僕はそんな彼女を、人知れず離れた場所から、ひとり静かに見つめているのだった。



「なんか静かやね・・・」

どこからともなく、そんな声が聞こえた気がした。

相沢優美のいない翌週からの二週間、課内は殺伐とした廃墟と化した。

そういう僕も、黙々と仕事をこなすロボットと化していた。

「今頃、何してんろやろ?」

気が付くと、彼女のことばかり考えている自分がいた。

そんな僕の視線は、意味もなく、彼女の席を見つめていた。

そう、そこには彼女がいるはずだった。

いつも笑顔の。

でも、何処をどう探しても彼女はいない。

虚しさだけが残った。

切なさばかりが募った。

彼女のいない二週間、明らかに僕は普通でなかった。

いや、普通でいられなかった。

現在振り返れば、この時から、僕の彼女への気持ちは動き出していた。



そして、薄暗い曇り空のようだった二週間が過ぎ、相沢優美は帰って来た。

課内はたちまち、その梅雨明けに時を合わせるかのように、晴れ晴れとした空間となった。

それは、あたかも彼女のいなかった二週間が絵空事かと思わせるほどに。

皆の輪の中で、以前と同じように微笑む彼女がいた。

変わらず彼女はその輪の中心にいて、皆に楽しそうにハワイ土産を配っていた。

でも、僕は、その輪の中に入らなかった。

いや、入る気がしなかった。

僕は皆とは違う。

少しでも、そう思いたかったからだった。


僕は、彼女に話し掛けることさえ躊躇っていた。

すると、そのうち、彼女が僕を見つけて駆け寄って来た。

「久し振り。はい、これお土産」

彼女は笑顔でそう言うと、皆と同じハワイ土産を僕に渡してきた。

それは、ハワイ土産としては定番の、小箱に入ったマカダミアナッツだった。

「あ、ありがとう・・・」

ぎこちなく僕はそう答えると、無表情でそのお土産を受け取った。

しかし、二週間前とはあからさまに違うその態度に、彼女は少し不思議そうな顔をした。

「どうかした?」

そして、心配そうにそう訊いてきた。

「ううん、別に・・・」

でも僕は冷たくそう返事をして、小さく首を横に振るだけだった。

そして、また二週間前と変わらぬ毎日が、静かに始まっていくのだった。



翌日からも彼女は、以前と同じように僕に接してきた。

以前と同じように、僕の隣で笑っていた。

結婚したからといって、彼女は彼女で何も変わらない、それは当たり前のことだった。

変わってしまったのは、僕の方。

僕だけだった。

そう、この時すでに、僕は彼女に恋をしていた。

気が付くと、彼女の胸のプレートが、相沢から西岡に替わっていた。



そんなふうに、優美に恋心を抱いてしまった僕だったが、杏子との関係は何ら変わることなく続けていた。

毎日の電話も、決して欠かすようなことはなかった。

遠距離恋愛だから、出来たとも言える。

だが、優美を想いながらする杏子との電話は、正直苦痛以外の何ものでもなかった。

僕はそんなに器用じゃない・・・。

ただ、そう思いながらも、僕は優しい彼氏を演じていた。

演じ続けていた。

しかし、常に心の底から出来なかったのか、喧嘩は自然と増えていった。

「話しててもなんかつまらなそうだけど、何かあった?」

彼女は事ある毎に、心配そうにそう訊いてきた。

「別に・・・。話すことなんか、そう毎日あるわけないやん」

でも、僕は知らず知らずのうちに、ついそんな酷い言い方さえしてしまうこともあった。

自分でも気づかないうちに、彼女を傷付けてしまっていた。

杏子に、非など一つもなかった。

悪いのは、いつも僕だった。


激しい喧嘩をすると、杏子は何日か電話に出ないこともあった。

長い時には、一週間出ないことも。

「でも、まぁ、これで暫く話しなくて済むか」

なのに、僕はそんなふうに思って、逆に安堵の溜息さえ漏らしていた。

そう、僕はすっかり変わってしまっていた。

それでも、僕は、杏子との偽りの遠距離恋愛を続けていた。

たとえこの恋に、幸せな結末が待っていなかったとしても。



そして、それからも僕は、気持ちを隠したまま優美との時間を過ごし続けた。

彼女は変わらず輝いたままで、人妻になったことなんて、微塵も感じさせることはなかった。

僕の気持ちなんて露知らず、いつでも、どんな時でも、その眩いばかりの笑顔を振りまいていた。

庶務の女の子たちの間では、前庶務の佐藤さんのおかげで、割と人気の高かった僕は、優美を含めた数人の女の子達と飲みに出掛けることもあった。

優美のプライベートな部分にも触れることが出来ていた。

あの歌声も、目の前で聴くことが出来た。

それは、僕だけの特権でもあった。

それだけで充分じゃないか。

僕は、そう自分に必死に言い聞かせていた。

いや、そうでも思わなければ、僕はどうにかなりそうだった。



季節は秋を迎えて、そう言えば僕にも一人、可愛い後輩が出来た。

「先輩、宜しくお願いします」

森君は眩しいくらいに初々しくて、僕は迷わず一年前の自分を思い出していた。

そして先輩となった僕は、いつしか設計の仕事を任されるまでになった。

だが、それは同時に、一社会人として、結果を残さなければいけないということでもあった。

仕事の方にも、僕は情熱を注ぐ必要があった。





時はさらに巡り、僕は社会人三度目の春を迎えた。

そして、物語はついに動き出す。

1992年4月22日、この日、僕と優美との関係を一変させる出来事が起こった。


その日は、就業後に課内主催のボウリング大会が行われた。

参加者は、課長、係長を除く20人。

優美も、勿論参加した。

会場は会社から三駅離れたところにある、やけに古びたボウリング場だった。

チーム対抗戦で行うことになり、4人構成の5チームに組み分けられた。

1人2ゲームづつ行い、チーム全員の総スコアと個人順位で競う。

盛り上げるためにと、それなりの商品も用意されていた。

運のいいことに、優美と同じチームになった。

ボウリングには少し自信もある。

いいところを見せるチャンスだ。

「頑張ってね!」

彼女の黄色い声援に、僕の気合は最高潮に達していた。

ところが・・・。

「こんな筈やないんやけど」

そんな思いとは裏腹に、結果は散々だった。

「レーンが駄目やね」

1時間後、そこには項垂れて言い訳ばかりする、僕の姿があった。

僕の気合は完全に空回りした。

そんな僕の不調もあってか、チームも惨敗した。

「全然ダメやん」

優美も苦笑いするしかなかった。


その優美はというと、女の子らしくスコアは低かったが、その存在だけで僕には充分だった。

「わー」、「きゃー」

彼女から発せられる悩ましげな声は、僕の顔を自然と綻ばせてもいった。

それにも増して、今日の彼女はいつもより一段と可愛く見えた。

スカートは普段の制服より幾分短めで、そこから覗く黒のストッキング越しの細い脚に、僕の目はもうくぎ付けだった。

自慢のロングヘアは投げる度に淫らに舞い、妙に色っぽかった。

一転して、ガータを出してはにかむ仕草なんかでは、子供っぽい一面も垣間見せていた。

そう、彼女と同じチームだったことで、僕は何とか救われた。



会場を出た僕らは、普段だったら飲みに繰り出すところ、さすがにこの日は皆疲れたのか、そんな話題も一切出ず、珍しく現地解散することになった。

足取り重く会場を後にした僕は、先輩ら数人と駅に向かって歩いていた。

通りは、居酒屋や風俗店が所狭しと賑わい、平日にも拘わらず、仕事帰りのサラリーマンや学生風の若者で溢れていた。

僕らは威勢のいい呼び込みのお兄さんの声を無視しながらも、激しい人通りの中を縫うように歩いていた。

だが、ふと気づくと、周りに先輩たちの姿はなく、いつしか僕は一人になっていた。

「ま、いっか」

駅に向かって、僕は再び歩き出した。

と、その時だった。

何気なく前を見ると、見慣れた女性の後ろ姿があった。

優美だった。

同じく彼女は、駅に向かってひとり歩いていた。

僕はそんな彼女の元に、気付けば足早に駆け寄っているのだった。



「お疲れさん」

僕は隣に並ぶと、彼女の顔を覗き込むようにしてそう言った。

「あ・・・」

いきなり現れた僕に、彼女は少し吃驚したような顔をした。

でもすぐに安心したのか、笑顔でこう言ってきた。

「よかった・・・。一人で帰るの、ちょっと寂しかったの」

本当は、会場を出た後、彼女と一緒に帰りたかった。

でも先輩たちの目もあってか、やはりそれは出来なかった。

だから、

「ついてる」

僕は迷わず、心の中でそう呟いていた。

彼女の自宅は、会社から程ないところにあるということだった。

僕らは少し話をして、会社の最寄り駅まで一緒に帰ることにした。



ドキドキしていた・・・。

会社以外で二人っきりで肩を並べて歩くのは、実に初めてのことだったからだ。

僕は必要以上に辺りを見廻し、会社関係者に会わないことを強く願った。

二人だけのこの貴重な時間を、とにかく誰にも邪魔されたくなかった。

僕は彼女の歩幅に合わせるように、意識してその歩をゆっくりと進めていた。


「自信満々やった割には、ひどかったんちゃう?」

何を話そうか迷ってる僕に、彼女がそう口を開いた。

「優美ちゃんの方が、上手かったもんね」

彼女の言葉に抵抗するように、僕は少しおどけてそう言った。

「よう言うわ」

僕らは笑い合った。

いつもの僕らだった。


駅が近づくにつれ、さらに人通りが激しくなった。

僕らの距離はさらに縮まっていった。

と、その時偶然、二人の腕が微かに触れた。

さらに、ドキドキした・・・。

僕の全神経が、彼女に触れた右腕に集中していくのが分かった。

僕はもはや、完全に会話どころではなくなっていた。



「喉乾いた。なんか冷たいもんでも飲まへん?」

その時、彼女がいきなりそう言ってきた。

不意を突かれたその言葉に、随分と慌てる僕だったが

「え・・・あぁ・・・ええよ」

すぐさま辺りを見廻し、自動販売機を捜した。

「なんにする?買ってくるよ」

近くに自動販売機を見つけた僕は、彼女にそう尋ねた。

すると、彼女は少し怪訝そうな顔をしたかと思うと、愛くるしい顔でこう言ってくるのだった。

「どっか入って、ゆっくり飲もうよ」

何が起こったのか、一瞬理解できなかった。

でも、すぐさま我に返った僕は、突如舞い降りたこの奇跡に、ただただ感謝しているのだった。


僕は急いで辺りを見廻し、ゆっくり出来そうな場所を捜した。

少し離れたところに、小洒落た喫茶店があるのを見つけた。

「あそこでええ?」

そう訊く僕に、

「うん」

彼女は笑顔でそう答えた。

僕らは人目を幾分気にしながらも、急ぐようにその喫茶店へと入っていった。



店内はほどよく落とされた照明の灯りが、落ち着いたムードを漂わせていた。

壁にはその雰囲気を後押しするかのように、骨董品ぽい時計も飾られていた。

二組の若いカップルと、一人のサラリーマン風の男性がいた。

だがどこも取り立てて騒ぐようなこともなく、静かにその時を過ごしていた。

僕らは特に決め事をした訳でもないのに、窓際の席を避けて座った。



「疲れたぁ・・・」

彼女は座るなりそういうと、テーブルにその体を思いっきり預けた。

僕は少し緊張していたせいか、妙にかしこまって座っていた。

「なに飲む?」

そんな緊張を悟られまいと、僕はすぐさま彼女にメニューを勧めた。

「んーと、アイスティー」

彼女はメニューを見ながら、少し迷ってからそう答えた。

僕はすぐさま店員を呼んで、アイスティーとアイスコーヒーを注文した。

本当は、コーヒーは苦手だった。

でも彼女の手前、僕は大人ぶって少し無理をした。



飲み物が運ばれ、お互い喉が渇いていたのか、半分くらいまで一気に飲んだ。

「ふぅー」

そして、ほぼ同時に息を漏らした。

目が合って、再び笑い合った。

二人の距離が、さらに縮まった気がした。

でも、アイスコーヒーはやっぱり苦かった。

僕は、ちょっぴり後悔をしていた。



それからの僕らは、会社や同僚のことなんかを暫く話し込んだ。

「あの禿げ親父、ホンマ頭くるよね」

「私この前、手握られたんよ」

「マジで!やばいね」

「ところで斉藤さんさ、ちょっと変わってない?」

「変わってる、変わってる」

会社では絶対に口に出来ない話題に、僕らは随分と盛り上がった。

彼女の屈託のない笑顔は、瞬く間に僕の疲れを吹き飛ばしてもいった。



話も一段落したところで、僕は次の話題を探した。

「夫婦生活はどうなん?上手くいってんの?」

何気なく、出た言葉だった。

「新婚1年目やから、まだラブラブなんやろ? めっちゃ仲ええ夫婦やて、会社でも評判やもんね」

ほんとに、何気なくだった。

ところが、

彼女は、すぐには言葉を返さなかった。

暫く考え始めた。

何やら、浮かない顔にもなってきた。

そして、たっぷり時間を掛けたかと思うと、ようやくその重い口を開くのだった。

「そんなんでもないよ・・・普通よ」

少し間を置いてから、

「どっちか言うたら、上手くいってないほうなんちゃう」

さらに、間を置いて、

「夫婦なんてどこもそんなんよ」

そして最後にそう言うと、静かにその口を閉じた。

しかし彼女がそう話し終えるや否や、場の空気は一瞬にして凍りついていくのだった。



僕は驚いていた。

ただただ驚いていた。

彼女の口から発せられた予想だにしない言葉の数々に、ただただ驚くしかないのだった。

彼女の顔も、途端に見れなくなった。

そして、

上手くいってない・・・

ただその言葉だけが、いつまでも耳に残って離れなかった。



「ふ~ん・・・そうなんや」

平静を必死に装って、出た言葉がそれだった。

でも、引き続き、彼女の顔をまともに見ることが出来ないでいた。

沈黙が続いた。

何か喋らなきゃと焦った僕は、何とか顔を上げ、

「付き合って、どのくらいで結婚したんだっけ?」

気付けば、そんなことを訊いてしまっていた。

「・・・二年くらいかな」

ただ、そう言った彼女の顔も、見る見る暗くなっていくのが分かった。

何かを思い出しては、考え始めているようにも、それは見えた。

そこから何を喋ったのか、いや会話をしたのかすら憶えてない。


「そろそろ出よっか」

彼女の言葉に、ようやく僕は我に返った。

すぐさま時計を見た。

22時を少し回っていた。

そう、いつしか時は確実に刻まれていた。

「そうやね」

僕はそう言うと、ゆっくりと重い腰を上げた。

「先出といて」

そして次にレジの前でそういうと、店外に彼女を促した。

こうして僕らは、静かに喫茶店を後にするのだった。



駅に向かって、僕らはゆっくりと歩き始めた。

通りはいつしか先程とは180度その様相を変え、人通りはすっかりまばらになっていた。

ただ、僕らの間に会話はなかった。

だが、その時、僕の脳裏には、様々な想いが駆け巡っていた。

そして、激しく交錯もしていた。

優美が人妻であること。

田舎の杏子のこと。

でも、何を考えても、何を想っても、僕がこれまでずっと抑え込んできたあの感情が、突如ここで溢れるほどに込み上げてきた。

優美が好きだ・・・。

そして、その感情にすべてを支配された時、僕はもはや自分の気持ちを抑えることなんて出来なくなっていた。

そんな僕に、彼女の気持ちを考える余裕なんて、ある筈もないのだった。

次の瞬間、僕はおもむろに彼女の手を取ると、激しく握りしめた。

ただただ、必死で握りしめた。

それは、僕が人生で最も勇気を出した瞬間でもあった・・・。



「え・・・」

突然のことに、彼女はそう声を上げた。

吃驚していた。

とにかく吃驚していた。

だが、次の瞬間には、慌てるようにその手を振り解こうとした。

でも、僕は、それを許さなかった。

「誰かに見られたら、まずいよ」

彼女は焦るようにすぐにそう言うと、再び僕の手を振り解こうとした。

でも、僕は、またしてもそれを許さなかった。

そして、

「ごめん・・・。でも、もうこの時間だから大丈夫だよ」

無責任にそう言うと、さらにその指先に力を入れた。

彼女の手は吃驚するほどか細く、僕の力にすぐにでも砕けてしまいそうだった。



頭の中は、もう真っ白だった。

時が止まっているようにすら、感じた。

ただ、僕の力に観念したのか、彼女はそこからひと言も言葉を発しなくなった。

遂には、その力さえ弱めた。

そのままの状態で、僕らは駅に向かって再びゆっくりと歩き始めた。

そんな僕の目には、行き交う人の姿は全く入っていなかった。

二人だけの空間に、僕はすっかり酔いしれていた。

だが、その時だった。

彼女が、僕の手をそっと握り返してきた。

その瞬間、僕の躰を、今まで体感したことのないような衝撃が激しく駆け抜けていった。

それも、例えようもないスピードで。

僕は、もう、どうにかなりそうだった。

本当に、どうにかなりそうだった。

彼女のか細い指先から伝わってくる温かい体温だけが、いつまでも消えることなく僕の指先に残った。

僕は恥ずかしくて、いつまでたっても彼女の方を見ることが出来ず、照れ隠しに空を見上げ、雲間から微かに覗く星たちを、ただ静かに見つめているのだった。



しばらくすると、駅に着いた。

惜しむように、僕らは繋いだ手を離した。

二人で切符を買い、無言でホームに向かった。

ただ、刻む二人の足取りは、酷く重かった。

「時間よ止まってくれ」

僕は、心の中で何度もそう叫んでいた。

同時に、彼女がその時何を考えているのか、無性に知りたかった。

僕と同じ気持ちであることを、迷わず願った。

でも怖くて、僕にそのことを訊く勇気はなった。



電車が来て、ゆっくりと僕らは車内に入っていった。

車内は閑散としていて、残業帰りといったサラリーマンやOLが、疲れた様子でぐったりと座っていた。

それはあたかも、普段の自分を見ているようでもあった。

空いている席はあったが、ドア付近に僕らは並んで立った。

僕は何か話そうとしたが、依然、言葉は見つからず、やむなく静寂に身を任せることにした。

彼女は、静かに流れる車窓からの景色をぼんやりと見つめていた。

僕はそんな彼女の横顔をそっと見つめながら、ついさっきまでの出来事を思い出していた。

そして人妻である彼女への行為の是非を、自らに必死で問いていた。



気が付くと、彼女と別れる駅だった。

彼女が、ゆっくりとホームに降りて行った。

僕は、慌てて、ここで彼女に掛ける言葉を探した。

でも、やっぱり見つけることは出来ず、

「じゃあ、明日ね」

そうとだけ言うと、力無く右手を挙げた。

彼女は黙ったままだった。

じっと僕を見つめていた。

ただ、その顔は、見る見る曇っていくのが分かった。

ここで、発車のアナウンスが流れた。

と、その時だった。

彼女が、その挙げた僕の右手を振り払うかのように、小声でこう言ってきた。

「家まで送ってくれへんの?」

気付けば、僕は電車を飛び下りていた。



会社の最寄り駅ということもあり、僕らは距離をとって駅を出た。

そして、人目を避けるように、裏路地を選んで歩いて行った。

道が分からない僕は、彼女に並んで付いていった。

裏路地は狭く、外套の灯りは薄暗かった。

辺りはやけに静かで、遠くで車の走り去る音だけが微かに聞こえていた。



並んで歩く僕らに、ほとんど会話はなかった。

ただこの時、僕の脳裏には、依然、様々な想いが交錯していた。

人妻である彼女への行為の是非は、まだ答えすら出ていなかったからだ。

込み上げてくる良心の呵責に、少なからず、僕は囚われ続けていた。

しかし、迷走を続ける僕の理性は、再び彼女から発せられたあのか弱い言葉に支配され、またもや簡単に崩壊していくのだった。

もはや、抑えることなど出来なくなっていた。

僕は人気がないのを確認すると、荒々しく彼女の手を取った。

そして、薄暗い裏路地の奥に連れ込んでいった。

「ちょっと・・・」

彼女は小さく声を荒げた。

でも、僕はその声を一切聞かなかったかのように、いきなり彼女を抱きしめた。

なりふり構わず、ただただ強く抱きしめた。

もう、無我夢中だった。

心臓の鼓動音だけが、いつまでも耳に響いて鳴りやまなかった。


彼女は、少しだけ嫌がる素振りをした。

だが、僕の力にもはや為す術がないといったところか、それ以上の抵抗をしてこなかった。

彼女の躰はしなやかで細く、僕の力にすぐにでも壊れてしまいそうなほどだった。



「痛いよ・・・」

少し経ってから、彼女が小声でそう言った。

「あ、ごめん・・・」

慌てた僕は、すぐに力を弱めた。

でも、廻した手を、僕は決して離そうとはしなかった。

すると、彼女は何も言わなくなった。

ただ静かに、僕に抱かれていた。

時間だけが、音も立てずに流れていった。

だが暫くすると、彼女が、僕の腰にそっと手を廻してきた。

その瞬間、僕の心臓はもう爆発寸前だった。

このまま死んでもいい、そんなふうにさえ思った。

それからの僕は、彼女の躰から次々と放たれる妖艶な色香に、更なる欲望を抑えるのにとにかく必死だった。

辺りは、変わらず静かなままだった。

今にも切れそうな外套の僅かな灯りだけが、そっと僕らを照らしていた。



「時間、大丈夫?」

暫く立ってから、彼女が静かに口を開いた。

どれくらいの時間が経ったのだろう・・・。

僕には全く分からなかった。

渋々、左腕に填めていた腕時計を見た。

そして、慌てた。

門限の時間は、確実に迫っていた。

僕は、慌てて彼女を躰から離すと、焦るようにこう訊いた。

「家、どっち?」

「こっち」

彼女はある方向を指さした。

「ごめん、急ぐね」

僕は荒々しく彼女の手を掴むと、彼女の指さした方向に向かって小走りに歩き出した。

隣で済まなさそうにする彼女も、僕の歩く速度に合わせて、しっかりとその歩を進めてくれていた。

ただ、その時僕らの手は、愛を確かめ合うかのように、しっかりと繋がれているのだった。



彼女の自宅へは、それから程なく着いた。

自宅は、15階はあろうかという結構立派なマンションだった。

「ここが愛の巣かぁ・・・」

思わずそう呟く僕の胸中は、少し複雑だった。

「送ってくれてありがとう。帰り道大丈夫?」

心配顔で、彼女はそう訊いてきた。

「多分、大丈夫」

余計な心配をかけまいと、僕は笑顔でそう答えた。

「ホンマにごめんね、私が送ってなんか言ったから・・・」

「ううん、俺の方こそごめん」

 
彼女に合わせるように、気付けば僕も謝っていた。

「じゃあ、気を付けてね」

「うん、また明日」

そして僕らは手を振り合って、マンションの入り口で別れた。


彼女の姿が見えなくなるのを確認すると、僕は駅に向かって全力で走り出した。

本当は、疲れているはずだった。

でも、その足取りはすこぶる軽かった。

冷たい夜風が優しく身体を包み込み、僕は逆に、爽快感さえ憶えているのだった。



少し迷いながらも、何とか駅に辿り着いた僕は、いつもと同じように電車、バスを乗り継いで寮に向かった。

でも、一つだけいつもと違った。

無論、それは僕の胸の内だ。

僕にはいつもの帰路が、まるで別の道のりのようにすら感じていた。

そしてその長くて辛い寮までの時間が、いつもよりずっと短く感じられた。



門限ギリギリで寮に着いた僕を、管理人さんがセーフのジェスチャーで迎えた。

そんな管理人さんに思わず笑みをこぼしながらも、意気揚々と僕は自分の部屋に向かって行った。

汗びっしょりで部屋に戻った僕だったが、何故かすぐに着替えることもなく、暫くの間ベッドに横たわっていた。

気持ちを落ち着かせようと、タバコでも吸うことにした。 

やたらと気分よく、僕は煙をふかした。

そして気付けば、こんなことを呟いているのだった。

「夢じゃないんだ」

それから、こうも呟いていた。

「キスしたかったなぁ・・・」


しかし、その時ふと我に返った。

「杏子に電話しなきゃ」

そう、僕にはもう一つの現実が待っていた。

慌てて、僕はタバコの火を消した。

それから急いで頭の中を整理すると、息を整えてから杏子に電話を掛けた。

「遅かったね」

杏子の声は、明らかに待ちくたびれたといった感じだった。

「ボウリング大会があって、その後先輩たちと飲んでたから」

勿論、嘘をついた。

「そうなんだ・・・」

「めっちゃ疲れたから、今から風呂入って、もう寝るね」

「・・・うん」

「じゃあ、おやすみ」

「・・・おやすみ」

だがそんな彼女にも、僕は何とかそう取り繕って、いつもより早めに電話を切った。

「ふー」

受話器を置くなり、僕は大きく息を吐いた。

とりあえず、ほっとしていた。

それでも、杏子の悲しそうな顔がすぐに浮かんできて、やたらと後味が悪かった。

そして、たまらずこう叫ばずにはいられなかった。

「俺は最低の男だ・・・」


いてもたってもいられなくなった僕は、それからすぐに風呂場に向かった。

そして、いつもより激しくシャワーを浴びた。

だが、どんなに激しく浴びても、どんなに激しく洗い流しても、その思いを全て消し去ることなんて
出来ないでいた。

そんなこと、出来る筈もなかった。

僕は激しいシャワーにいつまでも打たれながら、何度も杏子に詫びていた。



午前一時を過ぎ、僕は慌ただしくベッドに入った。

布団を深く被って、すぐに眠りに就こうとした。

でも気持ちが高ぶっているせいか、やっぱりなかなか寝付けないでいた。

気が付くと、優美のことばかり考えていた。

彼女の柔らかな肌の感触が、手に取るように思い出されてきた。

自然とにやけた。

すると、そんな僕の脳裏に、ここである二文字が浮かんできた。

「不倫? これは不倫なのか・・・?」

僕は少し考えた。

でも、その時の僕に、そこまで考える余裕はなかった。

そこまでは頭は回らなかった、というのが本音だろう。

僕はそんなふうに、いつまでもいつまでも優美のことを想いながら、いつしか深い眠りに就いているのだった。



こうして、衝撃の一夜は幕を閉じた。

そしてこの日は、僕の人生にとっても、最も忘れられない一日となった。

二十五歳、春の出来事だった。



















恋ばな第三弾-衝撃の夜編-いかがでしたか?

物語は、ここからさらに激しく動きます。

続けて読んで下さってる方、こうご期待です!








































































































































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