僕の若き日の恋ばな第5弾です。
暖かくなる季節に向けて
時間のある方は、読んでみてください。
しかしながら、それからの僕らが、やはりすぐにデートをするという訳にはいかなかった。
勿論、優美には主婦というもう一つの顔がある訳で、僕の為に時間を割くということは、そう容易いことではなかったからだ。
でも、この時の僕には、そのことを理解できるだけの余裕があった。
そう、僕はもう、以前の僕ではなかったのだ。
それでもお互い、どうしても二人だけの時間が欲しかったので、就業後に彼女を自宅まで送るというかたちで、僕らはその僅かな時間を作った。
会社から少し離れた人通りのない場所で、よく僕らは待ち合わせをした。
ある日、いつものように裏路地を歩いていると、何やら近くで人の賑わう声が聞こえてきた。
「あ、お祭りやってる。ちょっと見てこうよ」
それにいち早く気付いた優美は、僕を置き去りにするかのように、その声のする方に走って行った。
あっけにとられる僕だったが、仕方なく彼女の後を追いかけた。
「いらっしゃい、いらっしゃい」
そこでは、地域主催の小規模な夏祭りが行われていた。
金魚すくい、射的、ヨーヨー、十数店舗の露店が、所狭しと通りを賑わしていた。
こじんまりとしたお祭りの割には、子供連れの家族や浴衣姿の若者のカップルもそれなりにいて、結構な賑わいを見せていた。
だが、会社からそう離れていない場所ということもあり、僕はやむなく彼女を止めに奔った。
「やばいよ、優美。ここだと、誰かに見られちゃうよ」
しかし、彼女は平然とした顔で、
「大丈夫よ。それより、なんかして遊ぼ」
彼女は露店に夢中で、それどころではないといった様子だった。
そのあどけない姿といったら、まるで天真爛漫な少女のようで、オロオロと周りばかり気にする僕とは、あまりに対照的だった。
「ホンマ、肝が据わってるなぁ・・・」
そんな彼女の姿を見るうち、深く考えるのが少し馬鹿らしくなった僕も、諦めるように彼女の後を追いかけた。
「ねぇ、これやろうよ」
彼女は、まず金魚すくいの前に留まった。
「俺はいいから、優美だけやりない」
実は、金魚すくいにはあまり自信がなかった。
「えー。じゃあ、私だけやるよ。はい、お兄さん、お金」
彼女は少しムキになったようにそう言うと、夢中で金魚すくいを始めた。
「わー」、「キャッ」
彼女は、声を上げてはしゃぎまくった。
僕はそんな彼女を、隣で優しく見守った。
「難しいー」
結局、金魚はすくえずじまいだったが、彼女は随分と満足気な顔をしていた。
次に彼女は、おもちゃなんかが沢山売ってある雑貨屋の前で留まった。
その店頭には、あまり高価そうでないアクセサリーなんかも数多く並べられてあった。
「可愛い・・・」
その中から、彼女がある指輪を手に取った。
それはなんの変哲もない、シルバーのおもちゃの指輪だった。
僕の方へ振り返った彼女は、
「これ買って」
目を輝かせながら、そう言った。
「そんなん欲しいの?」
不思議顔でそう訊く僕に、
「うん、これがいい」
彼女は大きく頷いた。
「じゃあおじさん、これちょーだい」
その指輪は、僅か五百円だった。
「ありがとう」
彼女はそう言うと、指輪をまず自分の顔の前掲げた。
「ほら、可愛いでしょ」
次にそう言うと、指輪を右手の薬指に填めた。
彼女は、めちゃくちゃ嬉しそうだった。
でも僕は、すぐに別のことを考えてしまっていた。そして、
「ごめんね、こんなものしか買ってあげられなくて」
気付けば、そう口にしていた。
もし僕らが普通の恋人同士だったら、そんな安物の指輪をプレゼントすることは、決してなかったからだ。
でも、普通の恋人同士でない僕らには、それが精いっぱいだった。
そう、僕らは限られた制約の中にいた。
そして、その制約の中で、この関係を続けていくしかなかったのだ。
それでも、そのシルバーのおもちゃの指輪は、安物にも拘わらず、幾重ものライトを浴びて、思いのほか輝きを放っているのだった。
その帰り道、彼女は何度も指輪を見ながら、
「初めて買ってもらったものだから、大切にするね」
嬉しそうに、そう言ってきた。
僕には充分すぎる言葉だった。
素直に嬉しかった。
でも、照れ隠しに、
「する時、ないやん」
つい、そんな意地悪な言葉を返してしまっていた。
彼女が、すぐに言葉を返すようなことはなかた。
暫く黙り込んでしまった。
そういう僕も、つい言ってしまったその不用意な一言を、ひどく後悔していた。
だが、暫くすると、彼女はふくれっ面な顔をしながら、
「あるもん」
そう言うと、その指輪を誇らしげに僕の前に掲げた。
その姿は、実に愛おしかった。
たまらなく、切なくも映った。
だが一方で、僕はまた別のことを考えてしまっていた。
そう、彼女の左手の薬指には、当然のように結婚指輪が填められていたからだ。
勿論、今までも気になってはいたが、気にしないようにしてた。
敢えて、僕は気にしないようにしてた。
でもこの時ばかりは、無理だった。
さすがの僕でも、無理だった。
僕は夢の中から、僕らの置かれた現実に、悲しくも引き戻された。
そしてその思いは、その日僕の頭の中から、一瞬たりとも消えることはなかった。
でも彼女は、そんな僕の気も知らないで、ことある毎に右手を掲げて、嬉しそうにその指輪を見つめているのだった。
その一週間後、遂に僕らは念願の初デートを迎えた。
その日、優美は、高校時代の友人と飲み会があると嘘をついて、その時間を作ってくれた。
僕のために、そうまでしてくれていた。
一方の僕はというと、そんな彼女の期待に応えるべく、友人の坂口君から車を借りる手はずをしていた。
同期で同じ寮生の坂口君は、高専卒のため、僕より二つ年下にあたった。
彼はどちらかというと真面目で、もの静かなタイプだった。
ただ、テニスだけは凄く上手くて、その腕前は一級品だった。
そんな彼を、僕は弟のように可愛がり、彼も僕を慕ってくれていた。
彼は僕のことをとても信用してくれてもいたので、理由など一切聞かず、喜んで車も貸してくれた。
彼は非常に口も堅く、いろんな意味で、僕にとっては好都合の友人だった。
迎えたその日、僕はいつもより少しだけお洒落をした。
普段の僕は、Tシャツにジーパンというラフな格好で、この時期、よく会社に通っていた。
その姿は、先輩たちから、大学生以下の予備校生とまで言われていた。
でもその日は、ブランドものシャツに、細身のパンツで決めてみた。
普段はあまりしない、香水も少しつけてみた。
鏡で見るその姿は、我ながら満足のいく出来映えだった。
そして、いつもより二時間ほど早く寮を出た。
平日に車で出勤するには、それくらいの時間の余裕が必要だった。
最悪遅れてもいいようにと、外泊届けまで出しておいた。
準備は、すべて万端だった。
そんな僕のテンションは朝から上がりっぱなしで、いつもなら憂鬱なはずの渋滞が全く気にならないほどだった。
さらにその車内には、人目など一切気にせず、当時流行っていたB'zの名曲を、気分よく熱唱する僕の姿があった。
そして、その日、僕が朝から仕事どころではなかったのは言うまでもない。
定時きっかりに仕事を終えた僕は、優美に軽く目で合図をすると、足早に会社を後にした。
外は、その明るさをまだ十分に残し、見上げる空は、鮮やかな薄青色に染まっていた。
そよぐ風は心地よく体に纏わりつき、刻む僕の足取りは極めて軽やかだった。
ついに実現した初デートに、僕は胸躍らずにはいられなかった。
駐車場に着いた僕は、彼女を迎えに颯爽と車を走らせた。
向かった待ち合わせ場所には、既に彼女が待ってくれていた。
黒のワンピース姿で佇む彼女は、先程の制服姿とは一転、妖艶な大人の色気をムンムンと漂わせていた。
そんな彼女に、僕は一瞬で目を奪われてしまっていた。
高ぶる気持ちを抑えるように僕は車を降りると、彼女を優しく車内へとエスコートした。
「どう?可愛いでしょ」
シートに座るなり、彼女は愛らしくそう訊いてきた。
「うん・・・」
「ミニが好きだって言ってたから、そうしたよ」
「うん・・・」
いかなる彼女の問いかけにも、僕は照れて「うん」しか言わなかった。
そしてそれからも、一向に彼女の方を見ることが出来ないでいた。
唯一見ることが出来た、ミニスカート越しに覗く、細くて結晶のような白い素足にも、僕はただドキドキするだけだった。
もう僕の頭の中は、これから起こり得る彼女との今夜の妄想で、爆発寸前だった。
僕らはまず、映画館に向かった。
本当なら、高級レストランなんかで何か旨いものでも、といきたがったが、時間的にそれは無理だった。
僕らに時間の猶予など、少しも無かったのだ。
映画館に着いた僕らは、隣接するバーガーショップで、その空腹を満たした。
悪びれる僕に、
「全然ありだよ」
彼女は、笑顔でそう言った。
選んだ映画は、ディズニーアニメの「美女と野獣」だった。
当時話題になっていた、彼女がずっと見たがってた映画だった。
彼女と過ごせれば良かった僕にとって、正直映画は何でもよかった。
映画が始まると同時に、僕らは手を繋ぎ合った。
夢にまで見た理想のデートに、僕のテンションは上がる一方だった。
そんな彼女の左手の薬指からは、いつしか結婚指輪が外されていて、反対の右手の薬指には、先日僕が買ったシルバーのおもちゃの指輪がしっかりと填められていた。
彼女の想いを十分に汲んだ僕は、繋いだ手にさらに力を込めるのだった。
「じゃあ、行くね」
「うん」
そして、映画館を後にした僕らは、暗黙の了解のもと、次の目的地へと向かった。
車に乗り込んだ僕らは、すぐに再び手を繋ぎ合った。
カーステからは、お気に入りの洋楽が静かに流れ、絡み合う僕らの指も、徐々に激しさを増していった。
彼女は、流れゆく窓の外の景色をぼんやりと見つめていた。
僕はそんな彼女の方を、変わらず見ることが出来ず、前方の車のテイルランプにその視線を集中させていた。
もう僕の耳には、周囲の雑踏の音は、一切届いていなかった。
対抗する車のヘッドライトだけが、途切れることなく、僕の目に光の軌跡を残した。
やがて、ホテルに到着した。
大通りから少し入ったところにあるそのホテルは、当時、若者に結構人気のあるホテルだった。
僕は、この日の為に念入りにリサーチをして、そのホテルを選んでいた。
時計の針は、すでに八時半を回っていた。
でも平日のせいか、思いのほか混んではいなかった。
僕は奮発して、最上階の一番高い部屋を取った。
少しでも、彼女に喜んで貰うためだった。
僕らは再び手を取り合うと、寄り添うようにその部屋へと向かって行った。
「すごーい」
部屋に入るなり、優美はそう声を上げた。
部屋は想像していた以上に洒落てて、高貴な清潔感さえ漂わせていた。
彼女は中央にでんと構えたベッドに飛び乗り、無邪気にはしゃぎ始めた。
僕はゆっくりとソファーに腰を下ろすと、気持ちを落ち着かせるように煙草を吹かした。
彼女が、今度は窓の方に走って行った。
「綺麗・・・」
そして、目を輝かせながらそう言うと、窓の外の景色を眺め始めた。
彼女の声に吸い寄せられるように、僕も後を追った。
「ホンマや・・・」
そして、そう言うと、背後からそっと彼女を抱き締めた。
応えるように、彼女は僕の腕に手をあててきた。
そして僕らは重なり合ったまま、窓から見える夜景を眺め続けた。
その絶景の夜景は、万人が滅多に味合うことの出来ないと思えるほどの、最高級なものにさえ思えた。
僕には、この日、この時の、このシチュエーションが、まさに二人だけの為だけに与えられたもののようにすら、感じられるのだった。
「シャワー浴びよっか?」
彼女の耳元で、僕は囁くようにそう言った。
彼女は小さく頷いた。でも、
「一緒に入ろうか?」
と、真面目な顔をして誘う僕に、
「恥ずかしいから、いい・・・」
と、照れながら断った。
僕は必要以上に悲しげな顔を作ると、
「じゃあ、先入るね」
ひとりバスルームに向かった。
僕が出ると、替わるように彼女がバスルームに向かった。
「絶対、来ちゃ駄目だよ」
向かう途中、はにかんだ顔をしながら、彼女がそう言ってきた。
「分かりました」
僕は再び悲しげな顔を作ると、わざと丁寧な口調でそう言った。
ソファーに腰を下ろした僕は、待ってる間、特にやることもなかったので、テレビでも見ることにした。
たまたま点けたチャンネルでは、売れっ子のお笑い芸人が、体を張って笑いをとっていた。
普段なら、大爆笑の筈だった。
でも、この時ばかりはちっとも笑えなかった。
仕方なく僕は、再び煙草を吹かした。
でもやっぱり彼女のことが気になる僕は、何かにつけてはバスルームの方に視線を向けているのだった。
暫くすると、ドアが開く音がして、バスタオルを纏った彼女がちょこんと顔を覗かせた。
「照明落として・・・」
随分とか細い声だった。
僕は言われるがままに照明を落とし、部屋を薄明かりにした。
すると、彼女が突然、バスルームから激しく飛び出して来た。
かと思うと、素早く布団の中に潜り込んでしまった。
あっけにとられる僕だったが、そんな彼女にたまらず微笑んでしまってもいた。
僕は纏っていたバスタオルを静かに取ると、彼女の待つ布団の中に入っていった。
そして、ゆっくりと彼女の方に躰を向けた。
彼女は恥ずかしがるように、背を向けて、躰を丸めていた。
そんな彼女に、
「好きだよ、優美」
僕はそう囁くと、背後から包み込むように彼女を抱き締めた。
「こっち向いて」
次にそう囁くと、彼女がゆっくりと躰を回転させた。
そして、今度は正面から彼女を抱き締めた。
それから、彼女が纏ったバスタオルを丁寧に取った。
薄明りの中でも、彼女の躰のラインははっきりと分かった。
それは細くしなやかで、見事なまでのくびれを見せていた。
白く透き通った肌は、軽く触れただけでも、壊れてしまいそうなほどだった。
「恥ずかしい・・・」
彼女が手で、すぐに躰を覆い隠した。
「凄く綺麗だよ」
でも、僕はそう言って、その手を優しくどけると、彼女をゆっくりと包み込んだ。
彼女の躰はやけに温かく、少し火照っているようだった。
そして、僕らは、激しくキスをした。
互いの気持ちを、強く確かめ合うかのように。
それから、僕は、初めはゆっくりと、そして優しく、彼女の躰に指や舌を這わせていった。
彼女の口からは、徐々に甘い吐息が漏れ始めた。
僕の五感すべてが、激しく揺さぶられていった。
次第に興奮してきた僕は、彼女を激しく愛撫した。
彼女を喜ばせようと、僕はもう必死だった。
彼女は恥ずかしがりながらも、強くそれに応えてくれていた。
替わるように、今度は彼女が僕を愛撫してきた。
彼女も、僕の躰に、優しく指や舌を這わせてきた。
あまりの柔らかなタッチに、僕は全身が骨抜きにされていくのを感じた。
最後には、僕のモノを包み込んで来た。
僕の興奮は、まさに最高潮を迎えようとしていた。
すぐに我慢出来なくなった。
そしてはやる気持ちを抑えるように、僕はゆっくりと彼女の中に入っていった。
こうして、僕らは、遂に一つになった・・・。
僕は、彼女の中で激しく興奮した。
すると、僕はあっという間に昇天した。
それは、僕が今までに味わったことのないような、絶頂感にすら感じられるのだった。
ことが終わると、僕は優しく彼女を抱き寄せた。
彼女は、僕の胸の中で静かに目を閉じていた。
そんな彼女の髪を、僕は何度も何度も指で優しく掻き撫でた。
そして、これ以上ないと思えるほどの幸せに、いつまでも、ただいつまでも、酔いしれているのだった。
「俺のこと、いつから好きになった?」
暫くしてから、僕は胸の中にいる彼女に尋ねた。
「内緒・・・」
少しはにかみながら、彼女はそう答えた。
「俺はたぶん、優美が気付くずっと前から、優美のことが好きだったよ」
彼女は黙って聞いていた。
「そうだ、俺、研修中に優美のこと見に行ったことがあるんやけど、覚えてる?」
僕は、彼女との初めての出会いについて語り始めた。
「えー、いつの話?」
「ほら、俺の同期の坂井君が、研修で6課に行ったことがあったやろ?」
「あー、あった、あった」
「そん時、うちの課にめっちゃ可愛い庶務がおるからって、優美のこと見に行ったんよ」
「へー、そんなことがあったんや」
「えー、そん時優美、俺と目が合って、会釈までしてくれたんよ。覚えてへんの?」
「ごめん。・・・全然覚えてへんわ」
「ホンマに!ひどいねー」
少し怒ったように僕はそう言うと、抱き締めていた手にさらに力を込めた。
「ごめん、ごめん」
彼女はそう言うと、僕の胸に深く顔を埋めてきた。かと思うと、
「でも坂井君、私のこと、可愛って言ってくれてたんや」
茶目っ気たっぷりに、そうも言ってきた。
「お前なぁー、じゃあ俺も香織さんのこと・・・」
「あー」
僕らはそうやって、心ゆくまでじゃれ合った。
そして、愛し合った。
それは二人にとって、本当に、本当に幸せな時間だった。
本当に、本当に・・・。
それからも、僕らは、何かと時間を作ってはデートを重ね、激しく躰を重ね合った。
そんな二人は、時に将来の話さえすることもあった。
「ねぇ・・・、もし私が離婚したら、私のこともらってくれる?」
僕の胸の中で、彼女が尋ねた。
「当たり前やん。俺は絶対に優美のこと幸せにするし、優美のこと愛し続ける」
僕は即答した。
そして、それは、今まで誰相手にも口にしたことがない、普通なら照れて言えないような臭いセリフでもあった。
勿論、杏子にだって。
でも、僕は、優美相手だったら、そんなセリフも平気で口にできた。
そんなセリフ、彼女の為ならいくらでも費やせた。
そして、その言葉すべてに、嘘偽りなど一切なかった。
仮にこの関係が公になったとしても、たとえ世界中の誰もが僕らを非難しても、僕は彼女の為ならすべてを擲ってもいい、出来ればこの先彼女とずっと生きていたい、本気でそう思っていた。
それほどまでに、僕は彼女を愛していた。
不倫という常軌を逸した関係が、必要以上に僕を狂わせていたと思われるかもしれない。
でも、僕は、今でもそう思っていない。そして、今でもこう信じている。
僕らは、ほんの少し、出会うのが遅かっただけだと・・・。
そう、彼女は、僕が生まれてから初めてと言っていいくらい、心底愛した女性だった。
そして、彼女は、僕のすべてだった。
この恋は、確かに日常に氾濫するありふれた不倫の恋だったかもしれない。
不倫が人道を外れた行為なんてことも、勿論分かってる。
でも、この恋は、僕にとっては純愛だった。
真実の愛、そのものだった。
気付けば僕は、自らとその行為すべてを正当化し、その行為を邪魔するすべてを、悪としているのだった。
優美との穏やかで幸せな日々は、それからも続いていった。
携帯やメールもないこの時代の恋愛は、確かに不自由さもそれなりにあったけど、でもそれはそれでスリルあるものでもあった。
連絡には、会社の内線電話をよく使った。
互いに席についてる時を狙っては、アイコンタクトしてから電話を掛け合った。
彼女は少しおっちょこちょいなところもあって、僕以外の人が出て、あたふたすることもあった。
非常階段や二人っきりのエレベーターの中で、よく内緒話をした。
急にドアが開いて、二人で余所余所しい態度をとるなんてこともあった。
怪しんでいる人も中にはいたかもしれないが、人妻の優美が、まさか僕なんかと交際しているとはさすがに思わなかっただろう。
僕らは、まるで社内不倫という、それはスリルあるゲームを、思う存分楽しんでいるかのようですら
あった。
そんな数ある彼女との想い出の中で、特に印象に残っているのが、課主催の信州への慰安旅行だ。
それは、残暑残る九月上旬の一泊二日の旅行だった。
休日の土、日を利用してのこの旅行は、優美と付き合ってなければ、ハードスケジュールの男臭い、ただ辛いだけの旅だった。
でも、優美と共に過ごせるこの旅行は、普段の休日を彼女と過ごすことの出来ない僕にとって、物凄く貴重な時間だった。
参加者は、課のメンバー以外にも、優美と仲の良い庶務仲間の松本さんや、妻同伴OKということで、香織さんも同行した。
課長、係長を除く、総勢二十三人。移動には、すべて貸切バスを使った。
僕は優美を通じて、松本さんとも仲が良かった。
優美と同い年の松本さんは、おっとりとした心優しい女性だった。
どちらかというと天然で鈍感タイプな彼女は、これまた都合のいいことに、僕らの関係を疑うような子ではなかった。
と言うより、全く気付いていなかったと思う。
初日は雲一つないような天候に恵まれ、朝からとても過ごしやすい一日だった。
バスは早々に高速に乗ると、すこぶる快調に最初の目的地である観光スポットに向かった。
僕は後輩の森君と座り、優美は松本さんと隣同士で座っていた。
窓側の席を陣取った僕は、はやる気持ちを抑えるように、座るとすぐに窓を開けた。
すると、そこから吹き込んでくる風が、心地よく僕の頬を揺らした。
まるで小学校時代の遠足を想い出させるかのように、僕の気持ちは高ぶっていた。
そんな僕は隣に座る森君に、競馬とは何たるかを、永遠と熱く語っているのだった。
高速を二時間ほど走ってから、サービスエリアで最初の休憩となった。
早々とトイレを済ませた僕は、煙草を吹かしながら、ひとりベンチに座ってくつろいでいた。
「おはよー」
そんな僕の前に、香織さんがどこからともなく現れた。
「あ、おはようございます」
「あのさー」
「はい」
「席さー、次ウチのと替わってくれへん?」
「えっ?」
「私とさー、ちょっと話せーへん」
「えっ?」
すぐには理解できなかった。
「えーと、香織さんと僕が座るってことですか?」
「うん」
香織さんは大きく頷いた。
僕は、混乱する頭の中を必死で整理していた。
「あー、別にいいですけど・・・、太田さんの了解はとってあるんですか?」
「うん、もちろん」
香織さんは満面の笑みでそう答えた。
「あぁ・・・」
僕の頭の中は、パニックに近い状態だった。
香織さんの意図するところが、全く分からなかったからだ。
まさか、僕と優美との関係を。
いやいや、かと言って、断る理由も特にないし。
「じゃあ、そういうことだから、よろしくね」
僕の返事を待つこともなく、香織さんはそう言うと笑顔で立ち去っていった。
未だ呆然とし続ける、僕をひとり残して。
バスに戻ると、太田さんにも促されて、僕は半ば強制的に香織さんの隣に座ることになった。
太田さんは「どうぞ」と言った、何食わぬ顔をしていた。
「もしや、太田夫妻がタッグを組んで・・・」
もう僕は、訳が分からなくなっていた。
でも、問題はそこで終わらなかった。
最悪なことに、優美の席がすぐその斜め後ろだったからだ。
急な展開に、優美に言い訳する時間なんて、ある筈もない。
優美の視線も気になって、なおのこと落ち着けないでいた。
そう、僕は二匹の雌蛇に睨まれた逃げ場のない蛙状態に、完全に陥っているのだった。
「どんな人なのか、前から話してみたいと思ってたの。ほら、あんまりちゃんと話したことなかったでしょ」
香織さんは、涼しい笑みを浮かべながらそう切り出してきた。
「あー、そうだったんですか。別に、普通の奴と思いますけど・・・」
僕はとりあえず、そんな慎重な言葉から返していった。
でも、内心はドキドキし通しだった。
「絶対に何か探ろうとしている」
そう勘ぐり続ける僕は、なるべく本性を出さないようにと心掛けてもいた。
優美に聞かれないようにと、意識して小さめの声で喋ってもいた。
ところが・・・。
そんな僕の不安をよそに、会話はすこぶる普通で、取り立ててきわどい質問なども一切なく、思いのほか盛り上がっていった。
すると、僕も段々と楽しくなってきた。
そしてそのうち、香織さんにこれといった意図もないようにも思えてきた。
いつしか完全に落ち着きを取り戻した僕は、逆に香織さんが僕なんかに興味を持ってくれたことに、喜びすら感じるようになっていた。
「そうそう、太田さんとの馴れ初めを教えてくださいよ」
すっかり余裕が出てきた僕は、気が付くと、出口の見えないあの質問までぶつけているのだった。
それでも、太田さんの視線だけはきちんと確認しておいた。
「そんな、大した話でもないよ」
香織さんも、太田さん同様、そう言葉を濁してきた。
「澤井さんが傍にいるからかなぁ・・・」
思わず、そう勘ぐった。
「でも、本当にいい人だから・・・」
そして最後にそう言うと、香織さんはそれ以上を語ることはなかった。
「そうですよね。僕も太田さんのこと、大好きですもん」
僕もそう言って、この話を終わらせた。
僕はこの時、この謎は永久に解明されることはないと思った。
少し悲しかった。
でも、まぁ、それでもいいかなと思った。
そしてそれからも僕らは、互いの過去の恋愛話なんかで随分と盛り上がった。
香織さんは、想像通りのいい人だった。
しかも、可愛いし。
結局、優美の話は一つも出てこなかった。
「僕の思い過ごしだったかな・・・」
気が付けば、優美の存在を完全に忘れてしまうほど、僕は香織さんとの時間を思う存分満喫しているのだった。
と、ここまでは、まだ良かったのだが。
バスが二回目の休憩を取るために、サービスエリアに着いた時だった。
「じゃぁ、次は松本さんと席変わってもらって」
香織さんは不敵な笑みを浮かべながらそう言うと、そそくさとバスを降りていった。
「・・・」
僕は完全に言葉を失っていた。
そう、今度はなんと、優美と同席するように勧めてきたのだ。
香織さんの意図するところが、再び分からなくなった。
「優美に気を遣ったのか?」
そんなふうにも考えた。
僕の頭の中は、再び混乱状態に陥っているのだった。
でも、いいように考えると、僕は社内で一、二を争う、美女同士の熾烈な恋のバトルの中に置かれている当事者にでもなったような気がして、なんだか嬉しくなってきた。
そう考えると、ちっとも悪い気がしなかった。
ただ、二人とも、すでに人妻だったけど・・・。
だが、こうして僕は、香織さんの勧めるままに、次の目的地まで優美と同席することになった。
周りの先輩たちの目は少し気になったが、僕は敢えて無視することにした。
「何話してたの?」
僕が隣に座るなり、優美は付けていたウォークマンの左耳側だけ外して、そう訊いてきた。
ただその顔は、明らかに少し怒っているようにも見えた。
「いや、別に・・・。特に、大した話はしてないよ」
とりあえず、そう返した僕だったが、声は微妙に上ずってもいた。
「あーそや、太田さんとの馴れ初めを訊いてみたよ。香織さんも答えてくれなかったけど・・・」
だからそう言って、すぐに話を逸らした。
「随分盛り上がってるように見えたけど・・・」
しかし、優美は顔色一つ変えず、再び話を戻してきた。
「そう・・・?そうでもなかったと思うけど・・・」
僕は執拗に話をぼかした。
「ふーん・・・」
すると、優美はそう言ったきり、何も言わなくなった。
そして、再び外していたイヤフォンを左耳に付けたかと思うと、僕に背を向けるかのように窓の外の景色を眺めだした。
「やばい」と思った僕は、最初どう取り繕うかと考えた。
でも、ここは周りの視線も考えて、とりあえず自重することにした。
そして、何事もなかったかのように
「何聴いてるの?」
そう尋ねると、優美の返事も聞かず、彼女の左耳から勝手にイヤフォンを外して、自分の右耳に付けた。
すると、そこからは、ドリカムの名曲、「未来予想図Ⅱ」が流れていた。
きっと何年経っても こうして変わらぬ気持ちで
過ごしていけるのね あなたとだから
この曲は、当時彼女が一番好きだった曲だった。
そして、彼女に合わせるように、僕も好きになった曲だった。
僕らは心地よくバスに揺られながら、一つのイヤフォンを分け合って、言葉も交わすことなく、静かにその曲を聴き続けた。
僕は、不意にここで、彼女の横顔越しに見える、窓からの景色にその視線を移した。
そこには、眩いばかりの美しい絶景が一面に広がってた。
色鮮やかな緑の木々たちに覆われたその世界は、壮大且つ、眩しいほどの輝きを放っていた。
僕は今まで話にばかり夢中で、いつの間にか現れたその雄壮な自然の景色に、全く気付かないでいた。
すると、その景色にすっかり目を奪われた僕は、日々の生活で疲れ切った心が、一瞬に洗われる気がした。
そのうち、僕は、隠れて優美と手を繋ぎたくなった。
でも、さすがにそれはやめといた。
代わりに、僕らは、狭いシートで肩を寄せ合った。
彼女の心地よい温もりが、やんわりとそこから伝わってきた。
僕には、それだけで十分だった。
やがて、バスは最初の目的地である観光スポットに到着した。
特に決めてあった訳でもなかったが、僕と優美は常に行動を共にした。
たださすがに、二人きりという訳にはいかなかったので、森君や松本さんも一緒だった。
向かう途中、僕は売店で使い捨てカメラを買った。
優美の写真が、どうしても欲しかったからだった。
そして、皆を撮る振りをしながら、優美の写真ばかりを、密かに僕は撮り続けた。
「ちょっと、やめてよ」
それに気付いた優美が、照れるように顔を背けた。
「可愛く撮るから」
でも、僕はそう言って、彼女にレンズを向け続けた。
レンズ越しに見える彼女は、僕の目にはまた随分と新鮮に映った。
サラサラのロングヘアが爽やかに風に舞い、壮大な景色とも重なって、その笑顔はまた一段と輝いても見えた。
念願の優美との2ショットも、森君をうまく使って撮ることが出来た。
僕の宝物は、こうしてひとつひとつ増えていくのだった。
見学を終えた僕ら四人は、少し時間もあったので、土産屋に立ち寄った。
その店には、たくさんの名産品やご当地グッズが、隙間もないくらいにぎっしり置かれていた。
「これ買って」
優美が僕の耳元で、囁くようにそう言った。
可愛いキーホルダーだった。
無言で頷いた僕は、二人にばれないようにそのキーホルダーをこっそり買った。
今度は400円だった。
「ありがと。これで、二つ目やね」
それを手に取った彼女が、満面の笑みでそう囁いた。
その顔からは、「金額なんて関係ない」
僕には、そう言ってるように見えて仕方なかった。
「幸せの価値観」は人それぞれ違う。
それは当たり前のことで、誰にも肯定も否定も出来ないのだが、僕にはそんな彼女の想いが、その笑顔から充分に伝わってきた気がした。
周りの色よい景色にも誘われて、僕はどんどんと優しい気持ちになっていくのだった。
その後スケジュールを一通りこなした僕ら一行は、宿泊先の温泉施設完備のホテルに到着した。
そこは驚くことに、場所柄にしては不似合と思えるほどの、近代的でやけに立派なホテルだった。
同室となった僕と森君は、部屋に入ると、ろくに寛ぐこともせず、すぐに温泉に向かった。
向かった温泉場は、ホテル完備の割には随分と広々としていて、結構それっぽい感じの造りだった。
「あぁ・・・」
湯船に浸かるなり、思わずそう声が出た。そしてそれからも、
「ずーっと、こうしていたいなぁ・・・」
気持ちいい汗をたっぷり掻きながら、森君とそんな話ばかりしていた。
現実から久々に逃れた異空間に、旅の疲れは瞬く間に飛んでいくのだった。
いい具合にお腹も減ってきたところで、大広間での食事となった。
こういう場所で味わう、地元の旬料理は、やはり格別に旨かった。
管理職クラスもいなかったので、ゆっくりとお酒も味わうことが出来た。
その食事を済ませると、ほろ酔い気分で、二度湯にも浸かりに行った。
これがまた、やたらと気持ち良かった。
僕はもうこれ以上ない、最高にリラックスした気分になっているのだった。
夜が深まると、僕はこっそり優美の部屋を訪ねた。
優美は、松本さんと同室だった。
僕らは買い込んでいた、お菓子やジュースをベッドいっぱいに広げると、それをつまみに深夜までいろんな話で盛り上がった。
「眠くなった・・・」
随分と夜も更けたところで、松本さんが先に眠りに就いた。
僕は照明を落として、部屋を薄明かりにした。
それからは、優美と二人きり、心ゆくまで語り合った。
「このまま二人で、ここで寝ちゃおっか」
そんな冗談まで。
「そうしたいけど、見つかったら大変なことになっちゃうよ」
彼女は微笑みながらそう言うと、僕の手にそっと触れてきた。
僕は隣で眠る松本さんに気遣いながらも、応えるように優美と手を繋いだ。
それから、僕らは、静かにキスをした。
窓からは、微かな月明かりが差し込んできて、そっと僕らを照らしていた。
都会の喧騒から解き放たれた静寂奏でるこの場所で、二人の夜は、こうしてゆっくりとゆっくりと、更けていくのだった。
迎えた二日目も好天に恵まれ、僕らは旅の最終目的地である遊園地を思う存分満喫した。
そして、優美との沢山の想い出を作った慰安旅行は、無事幕を閉じた。
最後まで、最高な形で。
それは、不倫関係の二人には、本当に夢のような時間でもあった。
ただ、僕は、優美に隠れて、こっそりと杏子のお土産も買っていた。
それは、旅行前日にした、唯一の杏子との約束でもあった。
でも、僕が杏子のことを考えていたのは、この旅行の期間中、その一瞬だけだった。
出来たはずの、連絡すらしなかった。
そう、僕の頭の中は、もう優美のことでいっぱいいっぱいで、もはや杏子のことを考えてる隙間など、微塵も残っていなかったのだった。
恋ばな第5弾、一つになった夜編、いかがでしたか?
次回から、話は急展開、この恋の末路はどうなるのか。
少しだけ期待してくださいね!
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