2015年3月10日火曜日

マスターの恋ばな④ -突然のキス編ー




若き日の僕の恋ばな第4弾です。

ホワイトデーウィークに

時間のある方は、読んでみてください。







翌朝は、やけに早く目が覚めた。

それでもぐっすり眠れたせいか、気分はすこぶる良かった。

気が付くと、昨夜の出来事を思い出していた。

夢じゃないんだ。

ホントに現実なんだ。

自然とにやけた。

途端に、優美の顔が見たくなった。

僕は少々急ぎ目に準備を済ませると、いつもより早く、いつもより軽やかに寮を出た。



向かう電車の中でも、優美のことばかり考えていた。

早く逢いたかった。

逢いたくて仕方なかった。

そんな僕が、満員の電車やバスが苦になる筈もなかった。

ただ、こんなことは、こっちに来てから、実に初めてのことだった。



会社に着くや、僕はすぐさま優美の姿を追った。

彼女は普段と同じように、慌ただしく朝のミーティングの準備をしていた。

そんな彼女に、僕はばれないように視線を送り続けた。

すると、そのうちようやく目が合った。

彼女は照れるように笑った。

連られるように、僕も笑った。

幸せだった。

まるで、夢の中にでもいるようだった。

すると、僕はこの時、初めて会った時に見た彼女の笑顔を、何故か無性に思い出しているのだった。



そんな僕だから、仕事中も彼女のことばかり考えていた。

そして、出来ることなら、昨夜の彼女との出来事を、皆に自慢したかった。

したくて仕方なかった。

でも、そんなこと出来る訳もないので、一人で優越感に浸ることにした。

そんな僕は、気が付くと、彼女との今後の幸せ計画ばかりを描いていた。

そして、そんな僕の妄想は、自分勝手に大きくなるばかりだった。




「ごめん、ちょっと無理・・・」

しかし、現実はそう甘くなかった。

そんな僕の妄想が崩れ去るのに、そう時間は必要なかった。

「今度、映画にでも行こうよ」

その日を境に、優美を誘い続ける僕だったが、彼女は僕の誘いを断り続けた。

「いつだったら、大丈夫?」

「うーん、ごめん・・・」

それでも僕は懲りずに、しつこいくらいに彼女を誘い続けた。

「やっぱり無理?」

「ホントごめん・・・お願い分かって・・・」

彼女の答えが変わることは、決してなかった。

頑なに僕の誘いを断り続けた。

ただ、そう最後に口にした彼女の顔は、それまでにないくらい哀しそうだった。

酷く哀しみに満ち溢れていた。

この時、僕は気付かされるのだった。

そう、これは僕が考えている以上に、簡単な問題ではないということを。

彼女にとっては、想像以上の覚悟が必要であるということを。



本当は分かっていた。

分かっていたはずなのに・・・。

気付けば僕は、自分のエゴだけで彼女を誘い続けていた。

彼女の気持ちなんて、本当はこれっぽちも考えていなかった。

遅かった。

遅すぎるくらいだった。

この日を境にして、僕が彼女を誘うことはなくなった。

そして、僕は暫くの間、後悔と自責の念に打ちひしがれることとなった。



ただ、彼女は、そんな愚かな僕に対しても別段怒ることもなく、普段通り接してきた。

嫌悪感すら見せなかった。

彼女は大人だった。

僕よりずっと大きな心を持った、大人だった。

それに比べて、僕はガキだった。

本当に馬鹿な、ただのガキだった。

僕の恋愛は相変わらずの自分勝手で、一向にその成長を遂げていないのだった。



それでも、遅ればせながらも、彼女の気持ちを悟った僕は、それから彼女への態度を一変させた。

彼女の気持ちを、一番に考えるようにした。

彼女に嫌われたくない、何よりもそんな強い思いが、僕をそうさせていたのかもしれない。

でも、これ以上彼女を傷つけたくなかった。

本当に、その思いからだった。

しかし一方で、彼女への想いは募るばかりだった。

僕は「優美」という、それは深い闇の中に迷い込み、もはやそこから抜け出せないでいた。



そんな中、仕事で、夫の西岡さんと会う機会も増えていった。

どんな夫婦生活を送っているのだろうか・・・。

僕の妄想は止まることなく暴走した。

優美はこの腕に抱かれているのか・・・。

嫉妬心は大きくなるばかりだった。

考えれば考えるほど、壊れていく自分を感じた。

もう僕の我慢は、いつ限界を超えてもおかしくなかった。

それはシャボン玉の如く脆く、すぐにでも破裂してしまいそうなほどだった。

しかし一方で、優美が僕以上に苦しんでいることに、この時の僕は気付いてすらいなかった。

僕はいつまでたっても自分のことしか頭にない、本当にどうしようもない男だった。




そんな辛い日々を二か月ほど過ごした六月の終わり、思いもかけないその話は突然舞い込んできた。

前に話した、澤井さんと佐伯の結婚が来春に決まったのだ。

まぁ、それ自体は普通にめでたい話なんだけど、それに伴って、なんと二人は九月いっぱいで会社を辞めて、地元の九州に帰ることになったのだ。

澤井さんは九州の大手企業に、十月からの再就職を決めていた。

そう、僕らの知らない間に、澤井さんは将来を見据えた環境を着々と整えていたのだ。

「やっぱり、澤井さんはひと味もふた味も違う。ホンマ、佐伯にはいいことをしたよ」

僕は今さらながら、自分の功績を自画自賛していた。

でもそのことは逆に、僕にとって大切な二人を、一度に失ってしまうことでもあった。

僕は二人の結婚を祝福しながらも、込みあげてくる淋しさを隠せないでもいた。

二人が会社を辞めることは、上司や一部の庶務の女の子たち以外は、仲の良い仲間うち数人にしかまだ知らされていなかった。

僕は悲しみのあまり、そのことを隠しておくのさえ、本当に辛かった。



そんな折り、その仲の良い仲間うち数人で、一足先に二人のお別れパーティーを開くことになった。

参加者は、澤井さんと佐伯の二人に、発案者である同じ課の太田さん、そして太田さんの奥さんの香織さんに、僕を合わせた五人だった。

それは、太田さんの自宅で、焼き肉パーティーという形で行われることに決まった。

太田さんは、僕より三歳年上の同じ係の先輩だった。

温厚で優しい太田さんは、見た目もふくよかで、見るからに「いい人」を描いたような人だった。

よくは知らないが、どこぞのお坊ちゃまでもあるらしい。

そんな太田さんもまた、澤井さんとはかなり親交が深かったらしく、そんな流れでの今回のパーティー開催となった。



太田さんの奥さんの香織さんも、何を隠そう社内の人で、設計システム8課で庶務をやっていた。

実は香織さんも、以前は3課で庶務をやっていたらしく、優美と同じく、結婚を機に異動になった節だった。

嘘みたいな話だけど、香織さんもまた随分と綺麗な人で、結婚前は結構な人気だったらしい。

僕も、何気にタイプな方だった。

二人は当然、社内恋愛から結婚に至った訳で、こんな香織さんを、見た目が「・・・」の太田さんがどうやってくどき落としたのか、僕は不思議で仕方なかった。

だから、飲み会の席なんかで、それとなく訊いたりもしたが、太田さんは必ずと言っていいほど誤魔化して、一向にその馴れ初めを教えてくれなかった。

寧ろ、触れられたくないみたいだった。

仕方がないので、他の先輩たちにも訊いてみたところ、なかなかの大恋愛の末の結婚というところまでは分かったが、それ以上の解明は出来なかった。

何やら、澤井さんも絡んでいるとかいないとか。

だから、皆、口を濁すのだろうか。

僕の興味は尽きるどころか、逆に気になって仕方なかった。

今となってはお互い幸せなんだから、ほんと余計なお世話なんだけど。



その太田さんの自宅は、会社近くにあって、お坊ちゃまの名に違わぬ、それは凄い高級マンションだった。

僕も何度かお邪魔させてもらったことがあったが、凄く広くて、しかも洒落てて、おまけに綺麗な奥さんまでいて、ほんと羨ましい限りだった。

香織さんの手料理までご馳走になったこともあったが、二人は仲も凄く良くて、それを見せつけられた僕は、「結婚もいいもんだ」とその時少し思ったほどだった。



話しは少しそれたけど、このパーティーは、僕にとっても、別の意味で絶好の機会の場だった。

そう、参加メンバーと仲が良い優美を、大義名分の元に、このパーティーに誘えるからだ。

勿論、優美も二人の退社を知っていた。

だから、このパーティーは、会社以外で優美との時間を過ごせる、まさに願ってもないチャンスの場だったのだ。


僕は早速、澤井さんと太田さんの元を訪れ、

「優美ちゃんがいいんだったら、大歓迎だよ」

すぐさま了解を取り付けた。

優美も、

「うん、行く行く!私も二人を祝福したかったし」

こうして、僕の思惑通りに話は進んでいった。

パーティーの話を進めていく上で、ホットプレートがもう一台あった方がいいという話になり、優美の自宅からもう一台持っていくことになった。

「運ぶの手伝ってね」

なんと、優美の自宅にまで行けることになった。

さらには、食材の買い出しも僕と優美の担当になり、その日僕は、優美との沢山の時間を、二人きりで過ごせることになった。

思惑以上の展開に、僕の心の踊りようといったら。

僕はその日が来るのが待ち遠しくて待ち遠しくて、本当に仕方なかった。



迎えた当日、仕事を終えた僕と優美は、まずその足で近くのスーパーに向かった。

彼女のマンションからほど近いそのスーパーは、普段彼女がよく利用しているとのことだった。

夕方ということもあり、店内は子供連れの主婦や仕事帰りのOLで、結構な賑わいを見せていた。

「はい、これ」

店内に入ると、彼女はすぐに手慣れた感じで、僕にカートを渡してきた。

「ふ~ん、いつもこんな感じfで・・・」

思わずそんな独り言を呟く僕だったが、気を取り直して彼女の後を追いかけた。

「早く、早く」

野菜コーナーから精肉コーナーへ、彼女は慣れた手つきで、どんどんと食材をカートの中へ入れていった。

「ねぇ、お肉はどれくらいあったらいいと思う?」

「う~ん、どやろ・・・」

「もう、ちゃんと考えてよ」

「ごめん、ごめん」

そんなふくれっ面な表情を浮かべる彼女も、僕にはまた可愛くて仕方なかった。


「ねぇねぇ、お菓子も買っていい?」

一通り買い物を終えて、レジに向かう途中、彼女が甘えた口調でそう言ってきた。

「ええんやない」

僕がそう言うと、

「やったー」

彼女は顔を一気に綻ばせて、一目散にお菓子売り場に向かって行った。

「何にしよっかな・・・、悩む・・・」

僕が辿り着くと、彼女はさっきまでの主婦の顔とは一転、無邪気な少女の顔になっていた。

そんな姿を微笑ましく思った僕は、

「優美ちゃんの好きなもんで、ええんちゃう?」

思わずそう声を掛けているのだった。

「じゃあねぇ・・・」

そのあどけない姿と言ったら、否応なしに僕を癒してもいった。

まるで僕らは、新婚ほやほやのカップルにさえ思えた。

気付けばそんな僕は、彼女との夢の結婚生活を、思う存分描いているのだった。



「優美ちゃんて、料理得意なん?」

レジを待っている最中、僕は唐突に彼女にそう尋ねた。

彼女との結婚生活を妄想するにあたり、どうしても必要なデータだった。

「当たり前やわぁ、こう見えても主婦よ」

自信満々の顔つきで、彼女はそう答えた。

「じゃあ、得意料理って何?」

彼女は少し時間を置いてから、

「う~ん、・・・それは秘密」

思わせぶりに、そう答えた。

「ふ~ん・・・、じゃあ今度食べさせてよ」

僕は少しだけ勇気を出して、そう言った。

「いいよ」

彼女は、優しい笑みを浮かべながらそう答えた。

それを聞いた僕は、

「ホンマに!約束だよ、約束!絶対だよ、絶対!」

興奮気味にそう声を上げているのだった。

「もう、分かった。分かったっから。いつかね、いつか・・・」

僕はこの時、僅かだが彼女との未来を垣間見ることが出来た。

その「いつか」が、たとえ来ることがないと分かっていたとしても。



その後、スーパーを後にした僕らは、その足で優美の自宅に向かった。

日が長くなったせいか、辺りはまだその明るさを僅かにだが残していた。

「ねぇ、太田さん夫婦の馴れ初めって知ってる?」

その道すがら、僕は気になっていたあの話を優美にぶつけてみた。

優美なら、ひょっとして何か知ってるかなと思ったからだった。

「私の入社前の話だから、私もあんま知らんのよね」

「そっか・・・」

なかなか見えてこない出口に、僕は少しだけがっかりした顔をした。

すると、そんな僕の姿を見た彼女が、

「なにそれ、香織さんに興味があるってことちゃうん?」

いきなりそう言ってきた。

その彼女の表情は、少し怒ってるかのように見えた。

「いや、そんな訳じゃ・・・」

「怪しいー」

「違うって」

僕は、少し焦り顔だった。

でも、それ以上に、内心は優美が少しやきもちを焼いてくれくれたことが素直に嬉しかった。

だからすっかり調子に乗った僕は、それみよがしにこう言うのだった。

「よう言うわ、俺が優美ちゃん一筋やて、知ってるくせに」

彼女が、言葉を返すようなことはなかった。

少し照れてるようでもあった。

ただ、その顔は凄く可愛かった。

本当に可愛かった。

たまらなくそう思った僕は、強く彼女と手を繋ぎたいと思ったが、そこはやめといた。

夕焼けになろうかという、空を見上げる僕の顔は、穏やかそのものだった。



それから、ほどなくして優美のマンションに着いた。

「遂に入るんだ」

目の前に雄壮にそびえたつマンションを、僕はそんな思いで見上げていた。

ここに来たのは、二度目。

そう、あの夜以来だ。

途端に、落ち着かなくなった。

手汗も、少し出てきた。

優美に促されながら、エレベーターで自宅のある7階に向かった。

自宅は、エレベーターの目の前だった。

彼女がごそごそと、バッグの中から鍵を取り出している。

緊張が止まらなくなった。

「ガチャ」

そして、その音とともにゆっくりとドアは開けられた。

こうして、僕は、その禁断の愛の巣へと、遂にその足を踏み入れていくのだった。



 
「どうぞ。ちょっと散らかってるかもしれへんけど、気にせんといて」

緊張顔の僕を、優美はそう言って玄関へと促した。

玄関はいたって綺麗で、彼女のブーツに並んで、夫の西岡さんのものと思われる、有名ブランドのスポーツシューズなんかも丁寧に揃えて置かれてあった。

シューズボックスの上には、洒落たデザイン画なんかも飾られていた。

「適当に上がって」

彼女はさらにそう言うと、僕を室内へと手招きした。

案内されたリビングも、彼女の言葉に反するように、綺麗に片づけられていた。

そこはダイニングキッチンへと繋がっていて、広々とした空間となっていた。

いかにも高級そうなソファーベッドがどっしりと場所を占領し、ガラステーブルを挟んで、大き目のテレビも置かれてあった。

壁にはラッセンの絵も飾られていて、いっそう洒落た感じを演出していた。

ダイニングキッチンに目をやると、中央に大きなテーブルが置かれ、その上には上品な花も飾られていた。

その周りを、まだ新品といった感じの大型冷蔵庫や高級そうな食器棚が囲み、あたかも新婚家庭をアピールしているようにすら、僕の目には映った。

反対側には、一際目立ったどでかい水槽が置かれていた。

その水槽の中では、二十匹程の美しい熱帯魚が、所狭しと優雅に泳ぎ廻っていた。

僕はそれからも、事件の物的証拠を捜す刑事でもあるかのように、部屋のありとあらゆる場所を見渡していた。



「恥ずかしいから、あんま見んといて」

隅々まで観察し続ける僕に、すかさず優美がそう言ってきた。

「ごめん、ごめん」

まずいと言った顔をした僕は、慌てて彼女の方に顔を向けた。

「疲れたね。ちょっと休もっか」

彼女は、ダイニングキッチンにあるテーブルの椅子に腰掛けた。

促されるように、僕も座った。

「そうだ、冷たいもん出すね」

彼女はそう言って立ち上がると、背後の冷蔵庫から麦茶を取り出した。

さらに食器棚から取り出したグラスに注いで、僕に差し出した。

「サンキュー」

僕はそういうと、一気にそれを飲み干した。

「喉乾いてたんや」

彼女はそう言って微笑むと、すぐに僕のグラスにおかわりを注いだ。

そんなふうに、僕らは暫くの間、つかの間の休息を過ごすのだった。



「今日、旦那さん遅いの?」

静かに、僕が口を開いた。

「うん。今日は残業で遅くなるって言ってた」

「そっか」

何故かホッとしていた。

でも、空気は幾分微妙になった。そんな空気を誤魔化そうと、

「これ、凄いね」

僕は背後に構えたどでかい水槽に、慌ててその話題を移した。

「ねぇー、綺麗でしょ。大きな水槽買って、熱帯魚いっぱい飼うのが、子どもの頃からの夢やったんよ」

彼女は、少し感慨深げにそう言った。

かと思うと、水槽の前に移動してきて、急に笑顔になって熱帯魚について語り始めた。

「これが・・・で、こっちが・・・。凄く可愛いやろ」

彼女は一生懸命説明してくれていた。

でも未だ緊張が残る僕の頭の中に、全くと言っていいほどその名前は入らなかった。

「へぇー」

でも僕は興味がある振りをして、彼女の話に耳を傾け続けた。

「ただ、水槽の掃除が大変なんよ。こまめにしないとすぐに汚れちゃって」

「そうなんだ」

「うん、清潔にしとかんと、すぐに死んじゃうし・・・」

彼女は最後にそう口にすると、静かに水槽を見つめだした。

倣うように、僕も水槽を見つめ続けた。

その優雅に泳ぐ熱帯魚の美しさは、しばし時を忘れてしまうほどだった。


そんな時、ふと彼女の方に目をやった。

彼女はなおも優しい顔で、水槽を見続けていた。

その姿は、実に愛おしかった。

たまらなく、愛おしかった。

たまらなく、愛おしく思えた。

そして気が付けば、僕は

背後から彼女を抱き締めているのだった。



彼女は、少しだけ驚いた素振りをした。

でも、こうなることが初めから分かっていたのか、

何も言わず、僕に抱かれていた。

幸せだった。

それで充分だった。

充分な筈だった。

だが、彼女から次々と放たれる甘い香りに、僕の理性はまたしても簡単に崩壊していくのだった。



廻していた手を、僕は彼女の躰から離すと、力づくで僕の方へ振り向かせた。

そして、彼女を激しく抱き締めた。

彼女は、ただただ吃驚していた。

だが、僕は、そんな彼女を一切無視するかのように、さらに激しく抱き締めた。

強く、ただ強く、彼女を抱き締めた。

僕の心臓は、もう尋常ではないほどの速さで鼓動を刻んでいた。

彼女は、それでも黙ったままだった。

ただ静かに、僕に抱かれていた。

だが、その時だった。

僕の力が強過ぎたのか、勢い余って僕らはもつれ合い、リビングの絨毯の上に重なるように倒れ込んでしまった。

「痛っ」

彼女が悲痛の声を漏らした。

「ごめん、大丈夫?」

僕は焦るようそう訊いた。

「うん・・・」

彼女は絞り出すような声で、何とかそう言った。

しかし、気付けばそんな僕らは、十数センチの距離で見つめ合っていた。



彼女は、恥ずかしがるように、すぐに視線を逸らした。

でも、僕はその距離で彼女を見続けた。

そんな僕の耳には、彼女の微かな息遣いが、すぐそこまで聞こえていた。

そして気が付くと、

キスしたい・・・

その衝動に駆られているのだった。

僕はゆっくりと彼女に唇を近づけてた。

それでも、彼女が拒絶すれば、やめるつもりだった。

すると、彼女は静かに瞳を閉じた。

そして、僕らはゆっくりと唇を重ねた。


幸せだった。

本当に夢のようだった。

彼女の唇は想像以上に薄く、吃驚するほど柔らかかった。



だがこの時、あまりの緊張からか、僕の唇は小刻みに震えていた。

それくらい、僕はドキドキしていた。

まるで、遠い昔のファーストキスのような。

僕は、ゆっくりと唇を離した。

そして、

「好きだよ・・・」

優しくそう囁くと、今度は覆いかぶさるように彼女を抱き締めた。

暫くしてから、優美もゆっくりと僕の背中に手を廻してきた。

そして、

「私も好き・・・」

そう囁くと、僕を強く抱き締めてきた。

僕らは、そのままの状態で時を止めた。

そう、僕はまさに、

夢の中で描いた、世界の中にいた。




どれくらいの時間が経ったのだろう・・・

ようやく落ち着きを取り戻した僕は、左腕に嵌めていた腕時計をゆっくりと見た。

そして、慌てた。

時計の針は、間もなく集合時間の7時になろうとしていた。

「やばいね・・・」

僕は少々諦め顔でそう言った。

「このままだと、怪しまれちゃうかもね」

彼女も、諦め顔でそう答えた。

そして、僕らは静かに微笑みあった。

それから、惜しむように互いの躰から離れた。



「急いで準備しなきゃ」

彼女は立ち上がるなりそう言うと、慌ててキッチンに向かった。

少し遅れて、僕も彼女の後を追った。

「はい、これ」

彼女は、棚から箱に入ったホットプレート取り出して、僕に渡した。

僕はそれを、別に用意された紙袋に入れると、食材の入った袋と合わせて両手に持った。

だが気付くと、そんな僕の前から、彼女の姿は忽然と消えていた。

「化粧直すから、ちょっと待ってて」

別の部屋から、彼女の声が聞こえてきた。

声がした部屋に行くと、彼女は化粧台の前にいた。

見ると、そこは寝室で、その奥には、言わずと知れたダブルベッドが、「どうだ」と言わんばかりに置かれていた。

僕は、そのベッドから思わず目を逸らした。

何か見てはいけないものを、見てしまった気がしたからだ。

僕は再び、化粧台の彼女に目を移した。

彼女は、乱れた髪をドライヤーで梳かし終わると、ファンデーションや口紅を塗り直していた。

「もうちょっと、待ってて」

「うん」

僕は両手に持っていた袋をゆっくり置くと、鏡越しに見える彼女を静かに見守った。

そんな僕には、口紅を塗る彼女の仕草が、やけに色っぽく見えて仕方なかった。

そんな彼女に、僕はまたドキドキしていた。



「OK」

彼女は、そう言って立ち上がると、僕の方にゆっくりと歩き出した。

そして、僕の前で立ち止まると、自分の顔を少しだけ突き出してこう訊いてきた。

「どう?可愛い?」

そう訊く彼女の顔は、もう普段の彼女に戻っていた。

そんな彼女に少し圧倒されながらも、

「うん・・・、凄く可愛いよ・・・」

僕はそう言って、小刻みに頷いた。

でも正直恥ずかしくて、彼女の顔なんて、少しもまともに見ることが出来なかった。

すると、そんな僕の唇を、彼女が手に持っていたティッシュで、いきなり拭き始めた。

「そっか・・・」

ドキドキしぱなっしの僕が、口紅がついてることなんかに、気付く筈もないのだった。

「これで大丈夫。さぁ、行こう」

僕らは少しだけ急いで、彼女のマンションを後にした。



外はすでに真っ暗になっていた。

僕らは出来るだけ裏道を選んで、太田さんのマンションに向かった。

僕は両手に持っていた袋を全て左手に持ち替えると、少し周りを気にしながらも、空けた右手で、そっと彼女の手を握った。

「重くない?」

彼女が心配そうにそう訊いてきた。

「全然大丈夫」

僕はそう答えると、その指先にさらに力を込めるのだった。



太田さんの自宅へは、歩いて10分ほどだった。

マンションに着いた時には、すでに20分ほど集合時間を過ぎていた。

僕は繋いだ手を惜しむように離すと、

「何て、言い訳しよっか?」

少し顔をしかめながら、彼女にそう訊いた。

「買い物に手間取ったで、ええんちゃうん」

あっけらかんと、彼女はそう答えた。

「・・・そうだね」

僕に比べたら、彼女は随分落ち着いてるように見えた。

「やっぱり、こういう時は女性の方が肝が据わっている」

僕は、改めてそう思わされるのだった。



それからエレベーターで、太田さんの自宅のある13階に向かった。

インターフォンを押す前に、僕は小さく深呼吸をした。

頭の中では、今から話す言い訳を準備した。

でもそんな僕の隣では、変わらず彼女が平気そうな顔をしていた。



「いらっしゃい。遅かったね」

ドアを開けると、心配顔の香織さんが僕らを出迎えた。

「すいません」

僕はそう言うと、何度も頭を下げた。

ただ、香織さんの顔だけは少しも見れないでいた。

でも、そんな僕を尻目に、やはり優美は何事もなかったように、

「ごめんね、遅くなって」

笑顔で挨拶していた。



「すいません、遅くなって」

僕は頭を深く下げながら、リビングへと入っていった。

その広いリビングのソファーには、澤井さんと太田さんが並んで座っていた。

「遅いよ。何やってたん。お腹ぺこぺこやで」

僕は、二人に一斉に責められた。

「すいません。買い物に手間取っちゃって」

僕は考えていた通りの言い訳を、そのまま口にした。

「ホンマしようがねえなぁ」

そう声を揃えて呆れる二人だったが、すぐに笑顔で許してくれた。

でもその顔からは、僕らを疑う様子なんて、これっぽっちもないように思えた。

僕は、少しだけホッとしていた。



優美はすでにキッチンにいた。

僕はホットプレートの入った袋だけ、太田さんに渡すと、食材の入った袋を持って、キッチンに向かった。

そこには、すっかり待ちくたびれたといった顔の佐伯もいた。

「もう、遅いよ」

佐伯も、酷い呆れ顔でそう言ってきた。

「ごめん、ごめん。まぁ、そう怒んなって」

ただ、佐伯にだけは、堂々とする僕がいた。


優美は、香織さんと料理の準備の話をしていた。

と、その時、一瞬、香織さんと目が合った。

その目は、何か言いたそうな目をしているように、その時の僕には映った。

そう、明らかに、皆のそれとは違った。

恋愛に関しては、百戦錬磨の香織さんのことだ。

香織さんの前だけでは、必死に平静を装うとする僕がいた。


それから、女性陣は料理の準備に取り掛かった。

その間、僕はテーブルの準備をしながら、先輩二人と談笑していた。

するとそのうち、僕もようやく落ち着きを取り戻してきた。

でも、やっぱり優美のことが気になる僕は、二人にばれないように、彼女に視線を送り続けるのだった。




ようやく準備も整ったところで、パーティーの開始となった。

澤井さんと佐伯が並んで立ち、澤井さんが簡単な挨拶をした。

その挨拶を終えるや、

「おめでとう!」

僕らは隠し持ったクラッカーを一斉に開けた。

「ありがとう」

二人は、満面の笑みを浮かべた。

そして、太田さんの音頭で、乾杯を済ませると、

「いっただきまーす!」

僕らは、一斉に焼き肉を頬張った。

精神的な部分が満たされていた僕の食欲も、とりわけ旺盛だった。

酒の量も自然と増えていった。

そう、僕ら六人は、皆心からの笑顔に包まれているのだった。



食事が一段落すると、僕らは二人の馴れ初め話でまず盛り上がった。

主役は、勿論僕だった。

「あん時は、ホンマやられたよ」

澤井さんが苦笑いでそう切り出してきた。

「まさか二人が付き合うなんて、俺も夢にも思わなかったですけどね」

笑顔でそう切り返した。そして、こう続けた。

「でもそん時、俺、独りでプリティウーマン見てたんすよ」

皆、大爆笑だった。

事の成り行きを知らなかった優美も、一緒になって笑っていた。

僕は、いつも以上に饒舌だった。



その後、男性陣と女性陣に分かれると、僕は急に真面目になって、澤井さんに再就職先の話を訊いた。

澤井さんは自身の将来像と合わせて、丁寧に語ってくれた。

語るその姿は、誠実そのもので、僕には頼もしく思えて仕方なかった。

そんな澤井さんの姿を目の当たりにした僕は、将来のことを真剣に考える日がそう遠くないことを、この時やけに感じるのだった。


優美は女同士、内緒話に盛り上がっていた。

笑顔で菓子を口いっぱいに頬張るその姿は、僕にはたまらなく微笑ましく映った。

僕はこの楽しい時間が永遠に続くことを、この時願わずにはいられなかった。

最後に、皆で記念写真を撮ることになった。

僕の隣には、自然と優美が並んだ。

「はい、チーズ」

六人で撮ったこの写真は、僕の大切な宝物となるのだった。



10時を少し回ったところで、パーティーも無事お開きとなった。

僕ら四人は、笑顔で太田さん宅を後にした。

「お疲れ様でした。優美ちゃん送ってきますね」

僕は当たり前のようにそう言うと、マンションの下で、澤井さんらとも別れた。

僕らは、来た裏道を再び戻って、優美の自宅の向かった。

二人の姿が見えなくなるのを確認すると、僕らはすぐに手を繋いだ。

今度は、彼女の方からだった。

辺りはすっかり静まり返り、人影は疎らだった。

でもその時の二人は、もはや人目を気にすることなんて、すっかり忘れているかのようだった。



「楽しかったね。肉もうまかったし」

僕はご機嫌そのものだった。

「うん、凄く楽しかった」

優美も満足気な顔を浮かべていた。

「そうだ、香織さんの視線がちょっと気になったんやけど・・・」

僕は気になっていたことを、優美にぶつけてみた。

「うん、私もそれはちょっと感じた」

優美も同じように感じたようだった。

「そっか、じゃあ香織さんの前だけは、ちょっと気ぃつけなあかんね」

「うん」

僕らは固く確認しあった。

関係がばれること、即ち、それは二人の関係の終焉に繋がる。

この時僕は、少しだけ身を引き締める思いになった。

そしてそんな流れの中、僕は自然にこう言うのだった。

「今度、映画にでも行こうよ」

「うん」

僕らは出来るだけ長く一緒にいようと、どちらからともなく歩く速度を弱めているのだった。



やがて、優美のマンションに着いた。

彼女は別れを惜しむように、マンションの前からなかなか動かなかった。

そんな彼女に応えるように、僕も彼女の姿が見えなくなるまで、何度も手を振りながら振り返った。

時間にも余裕があったので、今日は余韻に浸りながら、ゆっくり駅まで歩くことにした。

夜風が涼しくて、とにかく気持ちよかった。

僕は世界一の幸せ者にでもなったような顔をすると、悠然とその風を切って家路へと向かった。



こうして、衝撃の一夜、第二章は幕を閉じた。

この日が、僕にとって、再び忘れられない一日になったのは言うまでもない。































恋ばな第4弾 -突然のキス編 - いかがでしたか?

物語は、ここからますます面白くなっていきます。

期待してくださいね!






























0 件のコメント:

コメントを投稿