2015年8月6日木曜日
マスターの恋ばな⑥ ー杏子の逆襲編ー
若き日の僕の恋ばな、第6弾です。
お時間のある方は、読んでみてください。
僕がそんなふうに優美にうつつを抜かしている間に、杏子のフラストレーションはいつしか限界に達していた。
実は、僕は、杏子と顔を合わせづらいということもあって、一か月前の盆休みに杏子の元には帰らなかった。
それなりの理由をつけて、実家に帰省していた。
でも、それは、遠距離恋愛を始めておおよそ二年半、実に初めてのことだった、
そして、あの出来事は起こってしまった。
その日は、九月中旬のとある日曜日で、僕は坂口君と森君の三人でテニスをすることになっていた。
後輩の森君は、僕らの住む寮から少し離れた別の寮に住んでおり、そこにはなんと、テニスコートまで完備されていた。
男三人でテニスというのも、少し味気ないと思った僕は、前々日に駄目元で優美を誘ってみた。
すると、思いもよらず、彼女は喜んで参加すると言ってくれた。
実はその日、彼女は、夫の西岡さんやその友人たちとバーベキューをする予定になっていた。
でも、それを断り、なんと僕と過ごすことを選んでくれたのだ。
「ホンマに大丈夫なの?」
彼女の少し大胆すぎる行動に、誘ったとは言え、さすがに心配になった。
「大丈夫だよ。だって私、バーベキューとかあんま好きやないし」
彼女は平然とした顔でそう答えた。かと思うと、愛くるしい顔で、
「その代わり、ちゃんと迎え来てな」
「あぁ・・・それは、ええけど・・・」
僕は、幾分複雑な表情でそう答えた。
でも内心は、想像以上の僕への想いに、正直嬉しさを隠せないでもいた。
優美が参加してくれることを話すと、二人も大喜びしてくれた。
そして迎えた当日、再び坂口君に車を借りた僕は、ひとり優美の自宅に車を走らせた。
その日は九月中旬にも拘わらず、過ぎ去ろうとしている夏を思い出させるほど、朝から酷く暑い一日だった。
テニスは午後一時からの予定だったが、僕は早起きをして、午前中早くに優美の自宅に向かっていた。
早く行ったのには実は理由があって、この日なんと、優美が僕の為に手料理を振舞ってくれることになっていたのだ。
そう、優美は、あの何気なく交わした、僕との約束を覚えてくれていた。
実現することはないと半分諦めていた僕にとって、また一つ夢が叶うことになった。
午前九時ちょうどに、優美の自宅マンション前に僕は到着した。
その時間には、夫の西岡さんはすでにバーベキューに出掛けているとのことだった。
初キス以来の彼女の自宅に、僕の胸の鼓動は自然と高鳴っていた。
だからそんな僕に、もう罪の意識なんて、これっぽっちもある筈もなかったのだった。
「いらっしゃい」
ドアを開けると、可愛いらしいエプロンを身に纏った優美が笑顔で僕を出迎えた。
「すぐに用意するから、テレビでも見て待ってて」
彼女はそう言うと、僕をリビングへと案内した。
僕は言われるがままに、リビングのソファーに腰を下ろし、テレビを点けた。
あまり興味の向かない、情報番組ばかりやっていた。
彼女はというと、気分良さそうに料理の準備をしていた。
鼻歌なんかも少し聞こえてきた。
僕は、そんな彼女が気になって、一向にテレビに集中出来ないでいた。
エプロン姿の彼女はそれくらい、僕には輝いて映った。
「いいよなぁ・・・」
だからそんな独り言を思わず口にする僕は、まだ見ぬ彼女との夢の結婚生活を、再び妄想するのだった。
「お待たせ。こっち来て」
準備が整ったのか、彼女が僕を呼んだ。
ダイニングキッチンに向かうと、テーブルの上には、出来立てを思わせる湯気を思い切り漂わせた美味しそうな料理がすでに用意されていた。
鶏肉をアレンジした、彼女のオリジナルの料理だった。
「美味そうやん」
僕は思わずそう声を上げた。
「あり合せで作ったから、大したもん出来てへんよ」
彼女は申し訳なさそうに、そう言った。
でも、その料理は、そう思えないくらい綺麗に盛り付けられていて、そこから漂う心地よい香りは、瞬く間に僕の食欲を加速させてもいった。
僕らは向かい合って座り、その料理を一緒に食べた。
「うん、美味い。ホンマに美味いよ」
お世辞抜きに、美味しかった。
「ホンマに!良かった」
彼女はホッとした表情を浮かべていた。
僕はそんな彼女の笑顔を見つめながら、
「こんな手料理が毎日食べれたら・・・」
そんなことばかり、いつまでも考えているのだった。
すっかり満腹になった僕らは、時間にも少し余裕があったので、暫くの間リビングで寛ぐことにした。
「おいで」
先にソファーに腰を下ろした僕は、そう言って彼女を手招きした。
小さく頷いた彼女は、ゆっくりと僕の胸に躰を預けた。
そんな彼女の髪を、僕は何度も何度も、指で優しく搔き撫でた。そして、
「俺、優美のロングヘア大好きなんよね」
気が付くと、そんな言葉を口にしていた。
「じゃあ、ずっとロングにしとくね」
彼女ははにかみながら、そう答えた。
かと思うと、安心するかのように、僕の胸の中で静かに目を閉じていった。
彼女に合わせるかのように、気付けば僕も目を閉じていた。
満腹感による睡魔にも誘われて、安らかに、穏やかに、いつしか僕らは眠りに就いているのだった。
目が覚めると、十一時半だった。
僕の胸の中では、まだ彼女が眠っていた。
あどけない、可愛い寝顔で。
でも、そろそろ出発しなければいけない時間だった。
「時間だよ、優美」
僕は、優しく彼女を起こした。
「うーん、眠い・・・」
早起きしたせいか、彼女はまだ眠っていたそうだった。
正直、テニスなんてどうでもよくなっていた。
いつまでも、彼女とこうしていたいと思った。
でも、そういう訳にもいかないので、二人の待つ寮へ、僕らは慌ただしく向かった。
向かう車内でも、いつしか優美は眠りに就いていた。
西岡さんを早くに送り出して、僕の為に手料理まで作ってくれて、
疲れたんだろう、彼女は安らかな寝顔を浮かべていた。
僕は、カーステレオのボリュームをそっと落とした。
そして、赤信号で車が止まる度に、そんな彼女の寝顔を、微笑ましく見つめているのだった。
ほどなく寮に着いた僕らは、坂口君と森君の二人と合流すると、それから二時間ほどテニスを楽しんだ。
テニスが得意な坂口君以外は、決して自慢できるようなレベルではなかったが、優美がいてくれたおかげで、随分と盛り上がった。
僕も、いつも以上にハッスルした。
とにかく酷く暑い日だったが、気持ちいい汗もたくさん掻いて、皆充実感溢れる顔をしていた。
優美も、随分と楽しんでくれているようだった。
テニスを終えた僕らは、それから軽くお茶を楽しんだ後に解散、
優美を送るため、僕は再び彼女の自宅へ車を走らせた。
本当は、それからも少しでも彼女と一緒にいたかった。
でも、西岡さんが午後六時には戻ってくるということで、やむなく五時過ぎには彼女と別れた。
僕は一抹の淋しさを感じながらも、真っ直ぐ寮に向かって車を走らせた。
それでも、優美の手料理は食べれたし、皆とテニスも楽しめたし、車内には随分と満足顔の僕がいた。
そう、今日は僕にとって、最高に充実した一日で終わる筈だった。
ここまでは・・・。
だが、僕が寮に戻ると、事態は一変した。
信じ難い出来事が、我遅しと僕を待ち構えていたのだ。
僕は、玄関で、管理人さんに激しく呼び止められた。
そして心配顔の管理人さんは、ありえない事実を、まだ浮かれ気分を残す僕に告げてきたのだ。
「今日二時頃、彼女さんとかいう人が尋ねてきたよ。三十分ほど待ってたんやけど、連絡がつかないからって、結局帰って行ったけど・・・」
「えっ・・・」
僕は言葉を失っていた。
同時に、体中の血の気が一遍に引いていくのを感じていた。
それでも、混乱する頭の中を急いで整理した僕は、
「それで、今どこにいるか言ってました?」
激しい口調で、管理人さんにそう尋ねた。
「申し訳ない、それは訊いてないね」
「そうですか・・・」
「ただ、ちょっと具合が悪そうな感じやったよ。ほら、今日すごく暑かったやろ」
僕はさらに愕然としていた。
ほぼパニックに近い状態だった。そして、なんとか
「すみません、ご迷惑お掛けしました」
力無くそう言うと、肩を落としながら自分の部屋に戻っていった。
そう、僕は天国から地獄へと、一瞬のうちに突き落とされているのだった。
部屋に戻った僕は、依然パニックのままだった。
あまりのことの重大さに、身震いさえ憶えた。
それでも、必死に気持ちを整理した僕は、
「そう言えば、杏子、昨日電話に出なかった・・・
最近、少しおかしかった・・・
やばい、どうしよう・・・
でも、ここはもう、杏子からの電話を待つしかない・・・
そうする以外にない・・・」
その答えに、辿り着いているのだった。
そして、そんな備え付きの僕の電話に、留守電の機能は付いてなかった。
留守電機能付きの電話にしとおけばよかったのだが、僕はそうしなかった。
いや、敢えてそうしていなかった。
何故なら、友人の部屋にいたなどと何かと理由をつけて、外出してても誤魔化せるようにしていたかったからだ。
僕は、酷くズルい男だった。
だから僕は、杏子からの電話を待つしかなかった。
そうする以外になかったのだ。
僕は、杏子からの電話をひたすら待った。
とにかく、待ち続けた。
待っている間は、僕にはとてつもなく長く感じた。
でも、僕は待つしかなかった。
そうして待つこと二十分、遂に電話の呼び出し音が鳴った。
「もっ、もしもし、杏子、もしもし・・・」
僕は焦る気持ちを抑えることが出来ず、受話器を取るなり、誰とも知れない相手に向かって、激しい口調でそう言った。
「うん・・・」
少し時間を置いてから、今にも消え入りそうな声が聞こえてきた。
でもその声は、間違いなく杏子の声だった。
「お前、今どこにいるん?何で黙って来たん?どうしたん?」
彼女の返事を待つこともなく、僕は矢継ぎ早にそう質問を浴びせていた。
「ごめんなさい・・・」
でも彼女は、時間をかけながらも、そう絞り出すのがやっとだった。
「分かった、もういいから。で、今どこにいるん?」
そう訊き返すも、彼女は暫く黙ったままだった。
「梅田駅の空港バス乗り場・・・」
少し時間を置いてから、ようやくそう答えた。
「あぁ・・・あそこか、分かった、今から行くからな、そこで待っとけな、すぐ行くからな。あ、そや、管理人さんが具合悪そうとか言ってたけど、大丈夫か?」
「うん・・・」
再び消え入りそうな声で、彼女は何とかそう言った。
「そっか・・・良かった。じゃあ、今から行くからな、待っとけな」
僕は最後にそう言うと、激しく受話器を置いた。
「ふー」
僕は大きく息を吐いた。
連絡がついたことに、とりあえずホッとしていた。
でも気付けば、自分のことはすっかり棚に上げて、
「あいつ、何考えとんのや」
そんなセリフばかり、いつの間にか口にしているのだった。
それから僕はすぐに服を着替えると、管理人さんに連絡が取れたことだけ伝えてから、急ぐように寮を飛び出していった。
電車に揺られる僕の頭の中を、様々な思いがよぎっていた。
「きっと、僕のことを怪しんだから来たんだろう・・・」
僕は杏子が黙って来た理由が、当然分かっていた。
そう、最近の僕の態度は酷かった。
とにかく酷過ぎた。
そこからは、少しの愛情も感じられなかっただろう。
でも、それ以上に、僕は杏子の体調のことも気になって仕方なかった。
前にも少し話したと思うが、彼女は決して身体が丈夫な方ではなかったからだ。
彼女はどちらかというと神経質過ぎるところがあって、精神的に脆く、それが原因でストレスが溜まったりすると、すぐに身体に現れて調子を崩すタイプだった。
酷くなると、通院もしくは最悪入院が必要な場合もあった。
無知な僕でも、簡単な病気でないということはある程度は推測できた。
今日は暑かったし、尚更だ。
僕の心配が尽きることは、少しもなかった。
ただそんな状況にも拘わらず、僕の脳裏には、時折優美のことも浮かんでいた。
僕はもうどうしたらいいのか、本当に分からなくなっているのだった。
そうこう考えているうちに、梅田駅にはあっという間に到着した。
足早にホームを駆け下りた僕は、彼女の待つバス乗り場へ全力で走って向かった。
すると、向かったその先には、ぐったりと下を向いてベンチにもたれ掛かる、杏子の姿があった。
「杏子!」
僕は周りの目も気にせず、そう大声を上げた。
そして、駆け寄って隣に座ると、彼女を優しく抱きかかえ、激しい口調でこう訊いた。
「大丈夫か!」
彼女は、答えなかった。
何とか、小さく頷いた。
僕は彼女の顔をそっと持ち上げると、ゆっくりと僕の方へ向けた。
見ると、酷く泣いた後だったのが分かった。
さらにその顔はすっかりやつれ、憔悴しきってもいた。
動揺を隠せない僕は、しばし言葉を発せないほどだった。
彼女は、それからも僕に身体を預けたまま、ぐったりとして動かなかった。
掛ける言葉を見つけられない僕は、彼女が落ち着くまでとりあえず待つことにした。
ただ、こんな彼女の姿を見るうち、いつしか僕は今日一日の行動を、酷く後悔するまでになっているのだった。
「もう大丈夫だから・・・。勝手に来てごめんなさい・・・」
ようやく、彼女がその重い口を開いた。
ただその声は、酷く弱々しいものだった。
「もういいから・・・。俺の方こそごめんな、ずっと連絡つかなくて・・・」
僕は、すぐにそう言って謝った。
さらに、言い訳をしようともした。
でも、やめといた。
この状況で、何を言っても意味がない、
そう思ったからだった。
でも本当は、言い訳なんて思いついていなかった。
というより、言い訳なんて鼻っからある筈も無かったのだった。
「お前、明日仕事やろ。どうすんの?」
だから僕は、すぐに現実的な話をした。
明日は月曜で、彼女も僕も当然仕事だった。
「大丈夫。今日帰る」
すると、彼女はそれまでの弱々しい口調とは一転、少し気丈にそう答えた。
そこからは、
「裏切った僕とは一緒にはいたくない」
そう訴えてるように、僕には聞こえて仕方なかった。
少し、驚いた。
でも一方で、何故かホッとしていた。
何故なら、僕自身こんな状況で、これからどう杏子と接したらいいのか、全く分からなかったからだ。
「何時の便?」
僕は、再び現実的な話を杏子にした。
「最終だから、確か九時半だったと思う」
時刻は、既に午後八時二十分を回っていた。
すぐにでも、空港に向かわなければならない時間だった。
「空港までは送るから」
ここぞとばかりに、僕は優しい言葉を彼女に口にした。
それがこの状況下で出来得る、唯一の誠意だったからだ。
いや、それくらいのことしか、僕にはもう出来なかった。
僕らは次のバスに乗って、急ぐように空港に向かった。
向かうバスの中でも、彼女は僕に身体を預けたままだった。
そんな彼女を、僕は愛おしく思わざるを得なかった。
だがそんな彼女にも、僕は変わらず掛ける言葉を全くと言っていいほど見つけられないでいた。
それよりも、
「僕は本当に最低な男だ」
そんな自己嫌悪になるような思いばかりが、ただただ深く心に募っていくのだった。
やがて、空港に到着した。
慌ただしく、杏子がチェックインの準備に向かった。
チェックインを終えて戻ってきた彼女に、
「正月休みにはちゃんと帰るから。もう連絡しないで、来ちゃ駄目だよ」
僕は優しくそう言った。
「ごめんなさい・・・」
何とかそう口にした彼女の目からは、突然大粒の涙がこぼれ始めた。
焦った僕は、すぐに涙を指でふき取り、再び崩れ落ちそうになる彼女を慌てて抱きかかえた。
だが、続けて掛ける言葉を、僕は変わらず見つけることが出来ないでいた。
それよりもこの状況があまりにも耐え難く、一刻でも早くこの場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
「家に着いたら、ちゃんと連絡するんだよ」
搭乗時間が迫り、僕はそう言って、何とか杏子を搭乗ゲートに促した。
するとその時、杏子が僕に何か言いたそうな顔をした。
でもすぐに僕は、ばれないように視線を逸らした。
わざと気付かないふりをした。
彼女の言わんとすることが、何となく分かったからだった。
そしてその言葉が、この状況をさらに難しくすると思ったからでもあった。
だから僕は、彼女の姿が見えなくなるまで、精一杯の作り笑顔で彼女を見送った。
彼女は応えるように、何とか手を振り返してきた。
しかし、力無いその手を、僕は見るに耐え難かった。
彼女の姿が見えなくなると、僕の顔から一瞬で笑顔が消えた。
そして、すぐさま搭乗口に背を向けたかと思うと、一目散にバス乗り場に向かって歩き出した。
まるで、何かから急いで逃れるかのように。
バスに乗車した僕は、ぐったりとシートにもたれ掛かった。
もう、すっかり疲れ切ってしまっていた。
そして、更なる自己嫌悪から逃れるように、考えるのを止めていた。
僕はバスの揺れに身体を預けながら、窓から見える色鮮やかなイルミネーションに、その全神経を集中させているのだった。
それからの僕は、今まで以上に言葉を選びながら、杏子と接し続けた。
彼女の体調はすぐに全快というふうにはいかなかったが、彼女の体調を最優先に、僕は彼女を励まし続けた。
そんな彼女は、僕を責めるようなことは決してしなかった。
そして、あの日、僕がどこで何をしていたのか、触れることも一切なかった。
でも、そのことが逆に、僕を追い込んでもいった。
罪の意識に苛まされてもいった。
だから、僕は、すべてのことから逃げるように、その時が元通りに流れるのをひたすら静かに待ち続けるのだった。
恋ばな第6弾、杏子の逆襲編、いかがでしたか?
物語は、次回さらに佳境へと進んでいきます。
少しだけ、ご期待下さい!
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